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      <title>C-BAR&apos;S BLOG</title>
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      <description>C-Bar&apos;s Weblog</description>
      <language>ja</language>
      <copyright>Copyright 2008</copyright>
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         <title>エリック・クラプトン。</title>
         <description>『フジテレビ、水曜10時。新番組がスタートした。中村雅俊主演の大人の恋の物語。ターゲット設定の巧みさなど、フジテレビやっぱり一番元気だわと思わせたが、興味は主題歌にエリック・クラプトンの「ワンダフルトゥナイト」が遣われているところにあった。で、試しに観た。主人公は40ぐらい。妻を亡くし目下独身。そこに3人の子持ちの女性と、恋敵に亡き妻の双子の妹とありふれた設定。ターゲットの年齢が上がった以外に斬新さは、ない。それ以上に残念だったのは、主題歌の遣われ方。ピアノ、オーケストラと様々に編曲され、番組の各所に挿入されるが、いただけない。曲想というものを全然、大事にしていない。編曲者はきっと英語が不得意に違いない。一番好きな相手への想いを歌う曲なのに、オーケストラで朗々とやっちゃ、クラプトンが三波春夫になっちまう。こんなことを仕事でしてないか？コピー内容を無視したようなデザイン、デザイン重視で舌足らずのままのコピー、etc。』

これを読むと15年ほど前の僕は、かなり生意気で鼻息の荒いヤツだったようだ（笑）。
この頃から少しずつフジテレビに不満を持つようになったのかも知れないな。
エリック・クラプトンは前から好きだったが、最近は歳を重ねて、
ギターの腕前は言うまでもないけれど、その歌がとてもいい。
アンプラグドという新しいジャンルの火付け役となった彼のライブから、
最愛の息子を失った悲しみを込めた「Tears In Heaven」をはじめとして、
スタンダードを歌ったり、ジェームス・テイラーの名曲をカバーしたり、とても歌心があるし、
音楽というよりも、その生き方が素敵だなと思うようになった。
そういえばライブに行くと、みんなが要求するので必ずやるのに「いとしのレイラ」という曲がある。
確かに名曲。盛り上がる、
でも僕はアルバムに入っている「いとしのレイラ」の次の曲、
つまりアルバムの一番最後の曲のほうが好きだったし、今もそれは変わらない。
その曲の名は「庭の木（A Thorn Tree In The Garden）」。
クレジットによるとボーカルは違う人だけれど、それ以後のクラプトンに繋がっていくようなバラードの名曲だと
個人的には思っている。
何度も聴いた。何度も泣いた。そんな曲は滅多にない。</description>
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         <category>Back to 1990&apos;s.</category>
         <pubDate>Fri, 30 Sep 2005 21:17:38 +0900</pubDate>
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         <title>「大人は判ってくれない」という番組（フジ）は買いだ！</title>
         <description>1990年頃。僕はまだ会社勤めをしていました。その頃自分のメンバーとしっかりコミュニケーションしようと思い立って、
Welcome To  The New World/C-BAR&apos;S NOTE なるタイトルでその時々に感じたことを書いて、メンバー内を回覧するという方法で、いろいろ書いていました。
　最近になって読み返してみたら、10年以上が経った今でもあまり時代は変わっていないなぁと感じました。その中からいくつかご紹介しながら、今考えていることも少し加えていきたいなと思います。

その第一弾。

『「思い立ったが吉日」というので、早速。これから、できるだけ毎日、気になったこと、面白いこと、etc.書き連ねたい。情報があったら教えて欲しい。よろしく。

先日、久し振りに体調が悪く、会社を休んだ。手持ち無沙汰で、ずっとテレビを見てたら（眺めてたら）、結構面白い番組があった。「大人は判ってくれない」というタイトルで、1時間で短編を2編。伊武雅刀がホスト役。近頃あまりに安易な番組が多く辟易していた所なので結構愉しめた。テレビ東京で、多分月曜日だったと思うが、1時間モノのサスペンスがあるが、脚本が悪いのかいつも中途半端。それにひきかえ、1時間に２作品のこの番組は脚本がいいのか、緊張感があり、テンポも快適だ。「大人は判ってくれない」というタイトルは多分トリュフォーの映画からとったものだと思うのだが、新風を吹き込もうというスタッフの意欲があらわれていて、良い。この前は、なんと出演者が全員アメリカ人（カナダ人？）で字幕スーパー付きのヤツをやってた。DJの話。テレビでも広告でもマンネリを打破することが、次の道を拓くし、長けりゃイイってもんじゃないことを改めて教えてくれた。心がスーッとして、次の日はちゃんと来た。』　

こんなことを１５年ほど前に書いた。
翻って、最近のフジテレビ。
いかにも残念だが、この頃は気概もセンスも何もない感じがしてならない。
この当時以降、長く視聴率の三冠王を他局に奪われているのも、至極当然である。
何がフジテレビをそうさせてしまったのかは良くは判らないけれど、
もう昔話のようになってしまった感はあるが、ライブドアとの一連の茶番劇を見ていて、
凋落の一因は間違いなくトップにあると思った。
昔は報道畑で鳴らした人らしいが、ならば自局の深夜のニュース番組を見て、
これはひどいと思わないのだろうか？
個人的には深夜のニュース番組の中でフジのそれは、最悪である。
その理由は、四の五の言っても始まらないので、
とにかくご覧いただき他局と見比べることをお奨めしたい。きっと頷いていただけるかと思う。

テレビ、特に民法はこれからますます難しい時代になる。
インターネットで良質な番組をじゃんじゃん観られるし、
映画だけ観たいんだったら，CMなしのWOWWOWをはじめとした衛星放送の方がずっといい。

「ポンキッキ」や「プロ野球ニュース」、映画好きの僕には本当に愉しみだった
「アメリカの夜」（宝田　明がホスト役）
フジテレビはかつて民放として画期的かつ良質な番組を作っていた。
それが今やそれらもなくなったり、やわな番組に落ちぶれた。

頑張れ、フジテレビ！とエールを送りたいけれど、
そのためにはやっぱりトップが変わらないとダメかな？</description>
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         <category>Back to 1990&apos;s.</category>
         <pubDate>Fri, 30 Sep 2005 20:04:32 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>●ご意見・ご感想・アドバイスそして本のご注文は・・・</title>
         <description>「マイ・ディア・敬子」に興味を持っていただいて、ありがとうございます。
ご意見・ご感想そしてアドバイスをいただければ幸いです。

ご意見・ご感想・アドバイス／本のご注文は、
有限会社シーバーズ・ワークショップまでお願いいたします。
gimlet@c-bars.co.jp
●本の代金の振り込み／ベティ基金へのご協力は、お手数ですが下記口座までお願いいたします。
城南信用金庫　経堂支店　普通預金　口座番号353195
口座名　ベティ基金　柴田　英雄
●郵便振替もご利用いただけます。
豪徳寺駅前郵便局　00150-1-114176番　
ベティ基金　</description>
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         <category>My Dear Keiko</category>
         <pubDate>Tue, 20 Sep 2005 00:30:34 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>ベティ基金の設立にご協力ください。</title>
         <description>妻、敬子の死は、僕自身に大きな変化をもたらしました。
何かこの僕に出来ることはないかと考えるようになりました。
そして今も、この本の売り上げや、みなさんのご協力やアドバイスを基に、
「ベティ基金（Betty Fund）」が設立出来ないものかと考えています。
そこでは
●彼女と同じ脳腫瘍をはじめ、重い病と闘うみなさんが、情報交換出来る場・機会を創り出し、
　　　お互いに励まし合えれば。
●脳腫瘍という、今もなお未知の部分が多い領域の研究を支援出来れば。
●彼女と同じような年齢の女性はもちろん、多くのみなさんが、もっと健康に配慮出来る　　
　　　きっかけ作りが出来れば。
●高度医療を受けるために必要な治療費を一時的に支援出来れば。
というようなことを考えています。</description>
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         <category>My Dear Keiko</category>
         <pubDate>Tue, 20 Sep 2005 00:20:00 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>from My Dear Keiko／2001年4月12日〜14日。／送る言葉。（抜粋）</title>
         <description>　お別れ会の最後に親族を代表して、僕が送る言葉を述べることになっていました。しかしそうは言われたものの、何を言えばいいのか最後までまとまらず、その場でも胸が詰まって涙が出て来て、結局うまく言えませんでしたが、その時言おうと思っていたことはこんなことでした。
　「・・・・早過ぎる死でした。人の死はどんな場合も、残された者に悲しみ、辛さをもたらします。敬子の場合もあまりに突然で、しかもこれからやりたいことがたくさんあって、お互いに計画を練っていた矢先でしたから。
　重い脳腫瘍と診断された敬子は198日間一生懸命頑張ってくれました。沈黙の闘いでしたが、何度もくじけそうになった僕を窘め、勇気づけてくれました。そしてその人生を賭けて色々な宝を僕に残してくれました。そのひとつはたくさんの想い出です。僕は敬子が19歳の時に出会いました。ガールフレンドが、恋人になり、妻となり、そして母となる。それぞれの時を共に過ごせたことは幸せで、とても大切な宝になりました。二つ目は多くの友人たち。みなさんも得難く、そして何物にも代え難い宝です。闘病中、何度もお見舞いに来てくれて、励まし勇気づけてくれました。大好きな歌が病室に響いたこともありました。そんなみなさんのご助力が敬子に届きました。そして僕もどんなに辛くても決して負けない、あきらめない、自分からは降りない、そんな敬子を好きになったのだと思いました。三つ目の宝。それは僕に残してくれた愛する家族です。沙羅と葉奈。この2人がいなければ僕はただうろたえるばかりで、希望を失ってしまったかも知れません。2人の娘をとても愛していた敬子でしたから、これから敬子の分も愛して行きたいと思います。</description>
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         <category>My Dear Keiko</category>
         <pubDate>Sun, 11 Sep 2005 23:39:30 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>from My Dear Keiko／2001年4月12日〜14日。／離別と不変。（抜粋）</title>
         <description>　1日目は夜遅くまで親戚や仲間たちがいてくれて、お風呂に入れなかったので、次の日の朝、式場に出かける前に沙羅と葉奈と一緒にお風呂に入ることにしました。お風呂には水に濡れても大丈夫という面白い本が数冊置いてあって、その一冊に花言葉が書かれているのを沙羅が憶えていて、向日葵とスイトピーの花言葉を探してくれました。そう言えば、そんなことは全然考えていませんでした。とにかく敬子は向日葵が好きだったとか、単純にカーネーションよりはスイトピーがいいとか思いつきで選んだので、その花言葉など調べる余裕はありませんでした。「どんな風に書いてある？」と沙羅に訊ねました。「えーとねぇ。向日葵はね、これ何て読むのかな。なんとかマンと不変。スイトピーはね、何とかガクと何とかベツ。」「それじゃ解んないよ。どれどれ見せてよ。」沙羅から本を渡されて、見てみました。色々な花言葉がありました。昔、彼女にバラを贈ることもあったので、バラにしようかとも思ったのですが、バラには色ごとにずいぶん花言葉が違うことも判りました。贈る時はいつも赤いバラでしたが、その花言葉は情熱、純愛、でもそれが黄色なら嫉妬、不実に変わるのでした。最初献花にしようと思ったカーネーションは、赤は慈悲、白は純愛、黄色は軽蔑、縞は拒絶。花言葉のことを考えると実は花選びはかなり難しいのだと思いました。そんなことは全然考えもせずに選んだ向日葵とスイトピーはどんな花言葉を持つ花なのか。探しました。なるほど5年生になったばかりの沙羅には確かに読み方は難しい。向日葵は、傲慢、不変、スイトピーは歓楽、離別。傲慢というのは彼女には当たらないけれど僕には当て嵌まるかも知れない。でも不変というのはとてもいい。スイトピーはまさに献花には相応しい花言葉を持つ花だったのだと初めて知りました。
　離別と不変。彼女のお別れ会に、そんな言葉を持つ花を選んだ。別れることは確かに悲しい。でも彼女を想い出せば、彼女と別れることはない。きっとどこかで僕たちのことを見守ってくれるはずだから。そんな想いを変わらず持つこと。それが彼女のために出来ること、これまで僕たちにしてくれたこと、残してくれたことに感謝することなのだと。「愛されることは長続きはしないけれど、愛することはいつまでも続く、その想いがある限り。」いつか読んだ本の中の一節が浮かんで来ました。
　「よし、このことも送る言葉を言う時に、絶対に話そう。」
　でも実際には、胸が詰まって涙が出て来て、しどろもどろになってしまい果たせませんでした。</description>
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         <category>My Dear Keiko</category>
         <pubDate>Sun, 11 Sep 2005 23:10:53 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>from My Dear Keiko／2001年4月12日〜14日。／人と人を繋ぐ人。（抜粋）</title>
         <description>　お別れ会には本当に大勢のみなさんが集まってくれました。敬子の幼馴染み、高校、大学時代からの仲間たち、会社勤めの頃の上司や同僚、保育園の、幼稚園の、小学校の、色々なサークルの友人そして子どもたち、ご近所のみなさん、沙羅や葉奈のことを憶えていてくれて商店街の八百文さんまで。そして彼女を良く知る僕の古くからの仲間たち、友人たち、バンド仲間、会社勤めをしていた頃の上司、同僚たち、草野球チームの仲間たち、仕事仲間、クライアントのみなさん、家族ともども可愛がってくれたお店のご主人たちもご夫婦で。家族でお世話になった彼女の大学の大先輩も。多くの電報も届きました。多くの花も届きました。予想をはるかに上回り、集まっていただいたみなさんは両日で600人近くに上りました。数日後、遠くにいて来れなかったというメールも届きました。ブラジルから、ドイツから。盛大に、晴れやかに送ってあげたいと思っていた僕の望みはこんなにも多くのみなさんによって実現出来ました。彼女もきっと驚いたでしょう。そしてとても喜んでくれたでしょう。
　集まってくれた中には、大学を卒業して以来会っていない友人もいました。彼女が再び引き会わせてくれたのだと思いました。集まってくれたみんな彼女に起こってしまったことに驚き、残念だ、気を落とすなと励ましてくれましたが、「ぶるちゃんって、向日葵が好きだったんだ。知らなかった。でも確かに似合ってるよ。」「大好きな歌が流れてて、きっとぶるも嬉しいと思うよ。」「こんな送り方もあるんだなって思ったよ。感心した。」と、彼女らしいお別れ会になったと言ってくれました。
　彼女がまだ闘病中、ご近所の神武（コウタケ）さんのお宅にみなさんが集まってパーティーをしたことがありました。うろたえてすっかり気弱になっていた僕を元気づけるために招いてくれたのでした。その時神武さんがこんなことを言っているのを思い出しました。「敬子さんはさ、いつもいろんな人たちの真ん中にいるのよ。そんな気がする。お互いなかなか話せないでいた人も彼女がいることで打ち解けて友だちになっちゃう。そんな感じなのよね。」確かにそうかも知れないと思いました。
　お別れ会はまさにそんな彼女を表していました。共通の友人が多かったのですが、初めてお目にかかる方もとても多く、彼女が本当に多くのみなさんと交流していたことに驚き、感じ入りました。
　彼女はまさに「人と人を繋ぐ人」だったのだと。そんな彼女のおかげで、僕も色々な方と巡り会えたのだと。</description>
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         <category>My Dear Keiko</category>
         <pubDate>Sun, 11 Sep 2005 22:31:46 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>from My Dear Keiko／ホーム・アゲイン。</title>
         <description>　その後間もなく、敬子は病院の地下1階にある安置室に運ばれました。その間病室の後片付け、退院の手続きなども矢継ぎ早に済ませました。彼女を送るために早速葬儀にことを考えなければならず、病院から紹介された葬儀社の方と打ち合わせをして取りあえず日取りを決めました。いよいよ病院を出る時刻。中村先生をはじめ、色々彼女の世話をしてくれた看護婦さんたちも数人お別れに集まってくれました。改めて「ありがとうございました。」とお礼を言って病院を後にしました。外に出ると午後の強い陽射しが眩しく、汗ばむほどの陽気でした。
　それから20分ほど。午後2時を少し回った頃、199日振りに彼女は家に戻りました。無言の帰宅になってしまったことはとても残念でしたが、家族の元へ。帰りたがっていた僕たちの家に。
　床を取り、慎重にドライアイスを配して、彼女は横になりました。「お帰り、敬子。ママ。」そう声をかけて彼女の顔を見ました。本当に安らかな顔をしているので驚きました。「いい顔になったわね。本当に家に帰りたかったのね。」とお母さんが言いました。僕は特別信心深い訳でもなく、そんなことをすぐ信じる訳でもない極めて現実的なタイプだと思っていました。でもその時は心からそう思いました。確かに微笑んでいるように見えるのです。改めて、彼女はこの198日間、何も語ることはなかったけれど必死に病と闘っていたのだと。そして今その闘いから解放されて家に戻り、心から安心しているのだと。確かに身体は冷たくなりました。でも身体中にあった緊張は解け、不思議なことに床ずれの鬱血や首や顎にかけての発疹も薄れてほとんどんなくなっていました。その晩家を訪れてくれたご近所のみなさんや、大学時代のバンド仲間も、「きれいないい顔してる。」と言ってくれました。ギターを引っ張り出して、みんなで彼女が好きだった曲を思いつくままに演奏しました。病室にいる時味わっただろう寂しさを紛らわすために。元気だった頃はごく当たり前だった、賑やかで楽しい気分を想い出してもらうために。
　夜も更けて。みなさんも帰り、沙羅も葉奈も眠って、2人だけになりました。「お帰り、敬子。ママ。」もう一度そう声をかけました。しばらく顔を見ていました。「ただいま、ダダ。」と言っているようでした。いつもベッドで見ていた寝顔のように安らかでした。キスしました。
　そしてまたギターを手に取り、彼女とデュエットした曲を歌いました。
　その時のことを想い出しながら。心を込めて。彼女だけのために。</description>
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         <category>My Dear Keiko</category>
         <pubDate>Sun, 11 Sep 2005 20:57:29 +0900</pubDate>
      </item>
            <item>
         <title>from My Dear Keiko／「ありがとう。」</title>
         <description>　すぐに両国の両親と僕の実家に、そして学校に出かけている沙羅と葉奈を引き取ってもらうためにご近所の佐々木さんに、弟廣次の仕事場に、敬子の、僕の友人たちに。思いつくままに電話をかけ、彼女が最期を迎えたことを知らせました。中村先生が来てくれて、「奥様はとても残念なことでした。正式な時刻は午前11時35分でした。早速ですが、頭の膨れている部分を元のように戻してあげたいと思います。それからお顔などもきれいにしてあげたいのですが、よろしいですか。」と言ってくれました。「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
　先生方が最後の身支度をしてくれている間、外を見ながらみんなが来るのを待ちました。空は晴れ、陽射しが眩しいほどの良い天気でした。ただ、風が強いらしく、雲がとても速く動いて行きました。これまでの彼女の闘いの日々が浮かんで来ました。長かったのだろうか、短かったのだろうか。良く解りませんでした。ただその最期がまりに突然で呆気なかったことに戸惑っていました。何も言えなかったけれど、彼女が息を引き取ったその刻、「敬子。ママ。ありがとう。」と声をかけました。やはりそれが一番に言いたかったことなのでした。ご近所の藤波さん、佐々木さんたちに連れられて沙羅、葉奈が着きました。「ママね、一生懸命頑張ってくれたんだけどな。天国に行ってしまった。沙羅、葉奈、ダダは何もしてやれなかった。ごめんな。でもママは本当に頑張ったぞ。だからありがとうって言ってあげような。」葉奈は涙ぐみ、沙羅は泣きたいのを我慢しているようでしたが、「うん。」と言ってくれました。ほどなく彼女のお父さん、お母さん、僕の弟廣次も集まりました。病室に入りました。膨瘤から髄液や血腫を抜き取る処置を行なったために、彼女の頭には包帯が巻かれていました。もしその刻が来たら着せてあげようとお母さんが用意してくれていたピンク色のきれいな浴衣に着替えてあり、顔もきれいにお化粧が施してありました。身体に繋がれていた色々な管も全てはずされ、とても穏やかな顔をしているように見えました。そして病室はとても静かでした。
　みんなで順番に彼女に話しかけました。「敬子！・・・・・・・。」「敬子、頑張ったね。やっとお家に帰れるね。良かったね。」「ママ、ありがとう。」「ママ、ありがとう。」「・・・・・・・・。」
　「色々手を尽くしていただいて本当にありがとうございました。」傍にいてくれた先生や看護婦さんにお礼を言いました。
　中村先生も涙を流しました。家に戻ってお母さんから聞かされて、それを知りました。</description>
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         <category>My Dear Keiko</category>
         <pubDate>Sun, 11 Sep 2005 20:29:29 +0900</pubDate>
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            <item>
         <title>from My Dear Keiko／2001年4月11日。</title>
         <description>　その日とても早く目覚めました。沙羅と葉奈を送り出し、早めに家を出ました。病室に着くとすぐ「おはよう、敬子、ママ。気分はどう。」と声をかけました。脈拍90。血圧61-36。血圧が低くなっているのが気にかかりましたが、その頃毎日していた通り、大好きなキャロル・キングのCDをかけ、顔や手足を拭いてから、髪の毛を梳かそうとした時のことでした。手術をした部位とは関係のない左後頭部にひどい鬱血があるのに気づきました。こんな所に床ずれが？と不思議に思い、ちょうど朝のお世話に来てくれていた看護婦さんにそのことを伝えました。看護婦さんも気づいていなかったようで、「頻繁に頭の位置は変えていましたから、床ずれではないと思います。もしかすると化膿しているかも知れません。すぐ先生と相談して処置してもらうようにしますので、少し外でお待ちいただけますか。」と言って先生と連絡を取り、処置の準備を始めてくれました。その間、病室を出て、待ち合いスペースにいた時でした。何人かの看護婦さんや先生がバタバタと忙しく走り始めていました。「どうしたんだろう。」と思っていたら、「柴田さん！病室に戻ってください！」と看護婦さんの呼ぶ声がして、すぐ病室に戻りました。
　驚きました。ほんの15分ぐらいしか経っていないのに、確かに低いのは気になってはいましたが、血圧を示す計測器のデジタル数字がどんどん下がり、上下とも「0（ゼロ）」になろうとしていました。脈拍も急激に下がり始め「13」。血圧はほどなくともに「0（ゼロ）」になってしまいました。本当に突然に彼女の心臓が停止したのでした。駆けつけてくれた中村先生も様子を見守っていましたが、「このまま、人工呼吸器をつけたままにして置きますと、肋骨が折れてしまうかも知れません。はずしてもよろしいですか。」と言いました。涙と嗚咽が止まらず、胸が詰まり、すぐには声が出て来ませんでした。「お願いします。」そう言うのが精一杯でした。人工呼吸器がはずされました。中村先生が彼女の右の手首に手を当て、脈を確認しました。そして「誠に残念ですが、ご臨終です。」と言いました。ほんの短い間の出来事だったのかも知れませんが、長く本当に長く感じられました。
　ついにその刻が来てしまいました。彼女の「生きる力」の終わりはあまりに突然に、あまりに呆気なく。いつかその刻はやって来る。僕に出来ることは最後までしっかり見守ることなのだ。そう覚悟はしていたはずなのに、すぐには信じられず、悲しくて涙が止まりませんでした。
　彼女の手を握り、額にキスしました。まだ温もりが残っていました。</description>
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         <pubDate>Sun, 11 Sep 2005 19:52:28 +0900</pubDate>
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         <title>from My Dear Keiko／黄色いワンピース。（抜粋）</title>
         <description>　余命宣告の最初の関門、半年を10日ほど過ぎていました。元気だった頃の敬子とは全く違っていました。でも、彼女は自らの意志で日々を生き抜いている。そのことを尊重しなければ。それに必死に頑張るのには、理由があると思っていました。葉奈の入学式でした。ここまで弱り切って、痩せ衰えても、そのことを見極めたいのだろうと。病に倒れ、少し持ち直したその時も、葉奈の幼稚園最後の運動会を気にかけて、行きたがっていましたから。意識はとうとう戻らず、呼吸さえも止まってしまい彼女とは話すことは出来ませんが、「葉奈の入学式もうすぐね。」そう言っていると思いました。
　2001年4月6日。穏やかな朝でした。バーバが見立ててくれた黄色いワンピースを着て、ジージ、バーバから贈られた真新しいランドセルを背負って、元気に家を出ました。1年1組さん。教室に入る葉奈は少し緊張していたようですが、晴れやかで嬉しそうでした。上級生に手を引かれて体育館に入って来た時、僕を見つけてニッコリと笑ってくれました。彼女にも見せたかった素晴らしい笑顔でした。式は1時間ほどで終わり、葉奈の記念すべき小学校第1日目は終わりました。「葉奈、1年生だね。ちょっとおねえちゃんになったね。」「うん。葉奈ね、頑張るから。ママも頑張ってるから。」「そうだな。ママもそう思っているよ。入学式に来れなくて残念だったけどな。」
　家に戻り、着替えて食事を済ませると、早速病院へ行き、入学式のことを彼女に伝えました。「ママ、入学式に行って来たよ。葉奈、嬉しそうだった。バーバが選んでくれた黄色いワンピースがすごく似合ってた。やっぱり明るい色が葉奈らしいな。1年1組さんだよ。」前日35℃まで下がった体温は一転して上がり始めていました。身体中が火照っているようでした。
　葉奈の小学校入学。新しい生活の始まりです。その頃ずっと考えていたことがありました。仕事もほとんど手につかない状態だったこともあって、或るスポンサーの仕事がなくなることが決まり、大きな損失になりそうでした。でも、そんなことを気にかけている余裕も意味もないように思えました。彼女は命を賭して、何かを訴えている。そんな彼女を見守らなければ、これまで2人で築き上げて来たことの意味は崩れる。損失はいつか埋められるが。
　「ダダ、もう一度初めからよ。今度はダダが自分で切り拓くのよ。私はもう手伝ってあげられないから。頑張って。私の分も。」</description>
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         <pubDate>Sun, 11 Sep 2005 19:29:10 +0900</pubDate>
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         <title>from My Dear Keiko／或る朝。（抜粋）</title>
         <description>　敬子はどんどん痩せて来ていました。抵抗力が落ち、首から顎にかけて帯状に、そして額と頬にも赤く発疹が出来始めました。結膜浮腫が起き、涙腺の周辺の肉が剥き出しになってしまい、乾燥を防ぐために両目がガーゼで覆われました。これまでなかった床ずれも出来始め、左の踵や右のふくらはぎにひどい鬱血が見つかりました。
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　日々変動はあるものの血圧は安定し、脈拍も呼吸が止まった時点よりはかなり少なくなって落ち着いて来ていました。しかしもうこれは「生きている」のではなくて、「生かされている」に過ぎないのではないか。そんな風にしか考えられなくなっていました。お母さんも「もう敬子は十分に頑張ってくれたわ。とにかく早く楽にしたあげたい。人工呼吸器をはずしてやれないのかしら。」と言いました。気持ちが痛いほど解りました。最後まで見届けると決めた僕も揺れていました。
　そんな或る朝。いつもより早めに病院に着いた僕は、偶然中村先生に会いました。容態を気にかけて毎朝晩看に来てくれているようでした。思い切って訊ねました。「正直言って日々妻の様子が変わって行くのを見るのが辛くなって来ました。お母さんも楽にしてあげたいと言っています。僕も迷ってはいるのですが、人工呼吸器をはずしてあげることは出来るのでしょうか？」「どうしてもとおっしゃる場合はご家族みなさんの同意が得られれば、はずすことは出来ます。事実私が医者に成り立ての頃はそういうこともありましたが、今は少ないと思います。それと確かにこんな状態になってしまったことはとても残念ですが、そこから頑張って来られたことで、色々な方とお会いすることも出来ました。奥さんはご自分の意志でこの途を選びここまで持ち堪えているのだと、私は思います。それにもしご主人が迷っておられるのなら、人工呼吸器をはずすのは止めた方がいいと思います。」
　自らの意志。人工呼吸器に頼らなければもう明日はない。しかし彼女は今日も生き抜いた。何故そんなに頑張るのか。何が彼女をそうさせるのか。苦しく辛いのではないか。楽になりたいと思っているのではないか。そんな想いが頭を占めていましたから、中村先生の言葉にハッとさせられました。
　彼女の「生きる力」に任せて最後まで見届けると決めた。それは彼女の意志を尊重することでもある。どんなに変わり果て、それを見るのがどんなに辛くても、それが彼女の選んだ途なのだと。</description>
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         <category>My Dear Keiko</category>
         <pubDate>Sun, 11 Sep 2005 19:07:22 +0900</pubDate>
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         <title>from My Dear Keiko／桜の花の散る前に。（抜粋）</title>
         <description>　いつものように寒さの堪えた冬だったのに、桜の開花はいつもより早かったらしく、東京では例年より1週間ほど早く満開の時期を迎えていました。その頃は毎日お母さんかお父さん或いは2人が病室に来て敬子の傍にいてくれました。特にお母さんの悲しみは想像をはるかに超えるものであったと思います。自分のお腹を痛めた娘が、自分より先に旅立ってしまう、しかもそれが明白な事実となってしまう刻が確実に近づいている。傍でその現実を見守ることの身を切られるような辛さ、無念はおそらく僕やお父さん以上であったろうと。それらに耐えて彼女の髪を梳かしたり、手足を拭いたり、愛する娘の世話をしてくれていました。
　「お母さん、敬子のあごの所に小さな傷がありますよね。前に聞いたことがあるような気がしますが、大変だったんですか。」「そうね。あの時はびっくりしたわね。お風呂で転んじゃってね。すごく血が出ちゃって。お医者さんが出来るだけ傷ののこらないようにって慎重に縫ってくれたわ。」「敬子はね。初めての孫だったの。だからすごく色々な人に可愛がられて育ったのよ。学校の先生にもね。高校に受かった時も、頑張れって贈り物をくれたりね。」「こんなことになってしまって済みません、お母さん。」「英雄さん、そんなことはもういいのよ。敬子は幸せだったわよ。それに英雄さんにこんなに傍にいてもらえて。ちょっと急ぎ過ぎたのね。ねぇ敬子。早く家に帰りたいわよね。沙羅や葉奈が待ってるからね。桜の花が散る前に帰りたいね。もうそんなに頑張らなくてもいいのよ。楽になっていいんだからね。」ほかにも色々なことを話しました。彼女の小さい頃はお母さんはものすごく忙しくていつも彼女を負ぶって仕事や家事をしていたこと、高校はとても遠くて毎日送り出すのが大変だったこと、でも楽しそうだったこと・・・・。そしてこうも言いました。「毎日敬子を見ていると辛くなるの。早く楽にしてあげたいって思うの。人工呼吸器をはずしてあげられないのかしら。」
　呼吸が止まってからは、栄養も摂ることが出来ず、急に痩せて来ているように思えました。もともと小柄で華奢な身体付きだったけれど、さすってあげると肩のあたりが急に骨張ってしまって本当に細っているのが判りました。ふっくらと丸みのあった頬もこけて来たように見えました。膨瘤の部分も茶色に変色して来ていました。元気でいた頃とはすっかり変わってしまった彼女を見るのは本当に辛い。お母さんがそう思うのも無理はないと思いました。
　桜の花の散る前に。彼女のためにもそれがいいのだろうか。お母さんの言葉が残りました。</description>
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         <category>My Dear Keiko</category>
         <pubDate>Sun, 11 Sep 2005 14:34:47 +0900</pubDate>
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         <title>from My Dear Keiko／体温。（抜粋）</title>
         <description>　呼吸が停止してからは、敬子の身体の動きも目の動きもなくなってしまいました。看護婦さんに啖を引いてもらう時苦しそうにもがいていた、それさえも。しかし血圧、脈拍は彼女の闘いを物語るかのように日々変動していました。時に140を越える脈拍。上が80を下回るのが続くと状況はますます厳しいと言われた血圧。そしてもうひとつ、日々変動していたものがありました。それは体温でした。それまでのように38℃を越える高熱になる日があると思えば、手足や額に触れると驚くほど冷たくて、その度に不安になりました。たまたま朝中村先生に会えて、そのことを訊ねました。「この所、脈拍や血圧もそうですが、体温も日によって変動が激しくて、かなり低くなってしまうこともあるようなのですが。」「前にもお話ししましたが、呼吸が止まってしまった一番の原因は、腫瘍からまた出血があったことで、前回は緊急手術をして回避した脳ヘルニアが起こり、いや今回は完全に出来上がってしまい、脳幹が再度大きなダメージを受けてしまったことだと考えられますが、その影響を受けて体温調節を司る自律神経系の中枢も壊れてしまったからだと思います。尿の量も毎日調べていますが、今の所はしっかり出ていますね。」「尿の量が減るということにはどんな意味があるのですか？」「腎機能が低下し、腎不全を起こし、重篤な状態に陥る可能性も出て来てしまいます。」
　脳腫瘍が引き金になって、彼女の身体のあらゆる機能に変化が起こっている。本人の意識は戻らず、身体も動くことはないのに次々と過酷な試練が襲って来る。その残酷を恨みたくなる一方で、脳という器官が元気でいることにこんなにも密接に関わっているのだということを痛感させられました。彼女がここまで「生きる力」を振り絞れるのは、脳以外は極めて健康な状態だからでした。
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　結婚して15年、病気らしい病気をしたこともなく、みんなと元気に楽しく過ごして来た彼女が初めて経験した重い病。それがこんなにも深刻なものになってしまうなんて。それが未だに信じられないことがありました。葉奈が自転車の練習をしていた時に、外に出て来て笑いながら、僕たちを見ていた時の優しい顔、忙しい合間を縫って鍵盤に向かっていた時の神妙な顔、・・・・。何もなければ、想い出すこともなかったかも知れないさりげない表情が突然浮かんで来たりしました。
　彼女は、静かにただ静かにベッドに横たわっていました。</description>
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         <category>My Dear Keiko</category>
         <pubDate>Sun, 11 Sep 2005 13:59:51 +0900</pubDate>
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         <title>from My Dear Keiko／呼吸停止。（抜粋）</title>
         <description>　呼吸が停止してから2週間が過ぎようとしていました。沙羅にクラスメート朋子ちゃんのお父さん、佐々木正寿さんが病室を訪ねてくれました。
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　その後一緒に1階に降り、病棟に挟まれた中庭のようなスペースで話をしました。
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「・・・・・・・敬子は走るのは遅かったけど長く走るとか泳ぐのは得意だったみたい。マラソン向きの筋肉してたのかな。佐々木さんはどうしてマラソン始めたの？」「どうしてですかね。だいぶ前のことですから良く憶えてませんね。ただマラソンしてると邪魔が入らず独りで考えることが出来るし、責任も全部自分にあるし。そんな所が好きなんだと思いますよ。」「そうか。マラソンってみんな観るのは好きだよね。ただ走ってるだけのようなのに画面に釘付けになっちゃう。きっと独りで闘ってる姿に魅入っちゃうんだろうね。普段みんな独りであることって特別に考えたり意識したりしないしね。」「実際の話、苦しいですよ。でも途中で止めちゃうとなんか悔しくて。ただそれだけなんですけどね。自分に負けちゃうのが悔しいから最後まで頑張っちゃうんですね。」
　取り止めもない話をして別れ、病室に戻りました。彼女は静かに横たわっていました。脈拍が落ち着いていたものの、呼吸が止まった直後は200に近づくほどで、それはまさに全力疾走をした後の胸の高鳴りほどの状態でした。もう身体の反応はありません。啖を引く時、苦しそうにもがいていたのに、それさえも。人工呼吸器が命の綱。外見はピクリともしないのに、彼女の心臓は時にマラソンランナーのように高鳴り、走り続けている。独りで。傍にいて見守ってはいても、その孤独を癒やしてあげられない。病との闘いはかくも孤独なものなのか。またしても何も出来ないもどかしさ、悔しさが残りました。一緒に走ってあげられれば、一緒について行ってあげられたら。彼女が死に直面しているその時に「人はその最期、また独りに戻らなければならない。」その厳しい現実が沁みました。
　でも「途中で止めたら悔しい。」彼女はきっとそう思っている。応援しなければ。最後の最後まで。
　たとえどんなに厳しく、辛くても、自分からは降りない。そんな彼女を好きになったのだから。</description>
         <link>http://c-bars.air-graphic.net/archives/2005/09/#000121</link>
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         <category>My Dear Keiko</category>
         <pubDate>Sun, 11 Sep 2005 13:31:31 +0900</pubDate>
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