発行者:柴田 英雄 発行所:シーバーズ・ワークショップ
編集・デザイン:荒木デザイン室 製版・印刷・製本:オー・ジー・シー
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豪徳寺駅前郵便局 00150-1-114176番 ベティ基金
ベティ基金の設立にご協力ください。
妻、敬子の死は、僕自身に大きな変化をもたらしました。
何かこの僕に出来ることはないかと考えるようになりました。
そして今も、この本の売り上げや、みなさんのご協力やアドバイスを基に、
「ベティ基金(Betty Fund)」が設立出来ないものかと考えています。
そこでは
●彼女と同じ脳腫瘍をはじめ、重い病と闘うみなさんが、情報交換出来る場・機会を創り出し、お互いに励まし合えれば。
●脳腫瘍という、今もなお未知の部分が多い領域の研究を支援出来れば。
●彼女と同じような年齢の女性はもちろん、多くのみなさんが、もっと健康に配慮出来るきっかけ作りが出来れば。
●高度医療を受けるために必要な治療費を一時的に支援出来れば。
というようなことを考えています。
或る病院のホームページで見つけたグリオーマの説明をそのまま引用すると、
「(悪性)グリオーマとは
グリオーマは、本来は神経細胞の間にあって色々な意味で神経細胞を支えているグリアという細胞が、腫瘍化したものです。全脳腫瘍の中で最も多く(33%)、代表的な腫瘍です。しかしこの中にも比較的良性のものから、最悪性のものまで多くの種類が有ります。しかし、いずれの悪性度でも浸潤性に脳を侵し、徐々に進行し脳組織の損傷による障害が出現します。病気の進行と共に脳の損傷は強くなり、半身不随などの重篤な神経症状が出るだけでなく、頭蓋内の圧が上昇します。これは頭蓋骨という一定容積の入れ物の中に腫瘍という余分なものができたことと、脳の腫れによる脳そのものの大きさの増加によるものです。腫れた脳は行き場を失って、本来頭蓋内にある隙間から飛び出します。これが脳嵌頓(ヘルニア)と言われる極めて危険な状態で、脳の深部の出血を伴い患者さんを死に至らしめる大きな原因となります。」
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数時間に及ぶ手術の後、「現時点で出来る限りのことは、やれたと思います。」と中村先生は言ってくれました。しかし、手術のために行なった全身麻酔が切れる時間が過ぎても、彼女の意識は戻って来ません。
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結果が出ました。10月19日。中村先生からこう説明を受けました。「詳しくはレポートが来ますが、腫瘍の名前は『多形性神経膠芽腫』。腫瘍の中では最も悪性度の高いものです。お辛いこととは思いますが、一般的な症例としては余命半年から長くても2年です。勿論望みは捨てませんが、これが病理組織診断の結果です。」
僕とお父さんは言葉を失いました。
余命?そんなことが彼女に起きてしまったなんて。
敬子が倒れ、慌てふためいてしまいましたが、とにかく先生から説明されたことを少しでも理解しようと思って、手当たり次第、関連するホームページを検索しました。色々ありました。専門用語がいっぱいの難解なホームページから、病気とタタキ、今は一生懸命にリハビリに取り組み、その一環として開設したというご本人の言葉が添えられた個人のサイトまで。それぞれがとても意味深いものでした。そんな中のとある病院が開設しているホームページにこんな言葉が書かれていました。
「説明しましたように、いかなる治療も現在の医学では、延命効果を目指すのみで完治は望めませんが、出来うる限り、有意義な生活を一日でも長く送っていただくためには、(彼女のような)患者さんの場合は開頭手術による摘出術及び手術後放射線療法、化学療法の併用がよいと我々は考えています。」
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「有意義な生活」。この言葉がすごくひっかりました。今はとにかく、彼女が1日でも早く回復するように懸命の努力をする。必要な治療があれば受ける。それが最優先でした。しかし一方で、彼女が回復して、仮に何らかの障害が残ったにせよ、家に戻ることが出来たとして、彼女にとっての「有意義な生活」とは一体どんな生活なのだろうか?そんな想いが「しっかり、敬子。みんな待ってるからね。」という願いと、どうしても交錯してしまうのでした。
あれだけ、元気に色々なことをしっかりこなしていた彼女が、もし、車椅子あるいは寝たきりの生活になったのなら。彼女はどんな風に感じるのだろうか?沙羅や葉奈は?そしてこの僕は?彼女を愛する多くの人たちは?
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今度は「脳腫瘍」に関する情報を色々検索しました。
そして後で聞くことになった「グリオーマ」という言葉にぶつかりました。
緊急手術後、敬子の意識はなかなか戻って来ませんでした。毎日面会に行く度に、耳元で大きな声で、彼女の名を呼ぶのですが、叶いません。
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彼女は眠ったままです。でも、もしかするとちゃんと聞こえているかも知れない。その時、無性に彼女の声が聞きたくなりました。
笑い声、怒ったような声、少し寂しげばな声、夜、娘たちにお話を聞かせている時の優しい声、二人で出かけた夜の嬉しそうな、ちょっとはしゃいだ声、ピロートークをした時の抑えた艶っぽい声。何年も一緒に過ごして耳慣れたはずの彼女の声をどうしても聞きたくなりました。
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「意識というのをどう捉えるかも非常に難しい問題です。奥様が、相手の言うことが解ってそれに対して何らかの対応が出来る。これが今私たちがめざしている意識の回復ということです。しかしこれだけ長く意識が戻らないでいるということは、脳に対するダメージはかなり大きいと言わざるを得ません。勿論最善を尽くしますが、意識が戻られた場合でも、倒れてしまった以前の状態にまで回復されるかどうかは微妙です。率直に言って、かなり難しいと思います。」
先生の口から出た言葉は非常に酷なことでした。でも彼女は闘っている。きっと僕たちの声は彼女に届いている。
せめて一度ていいから、目を醒まして。そして僕たちの名を呼んで。もっともっと話したいんだ。話したいことが山ほどあるんだ。
僕は心から彼女の声が聞きたいと思いました。
今でも良く憶えていますが、僕はその朝悪い夢を見たらしく、とても早く目が醒めました。前の晩、敬子の「おやすみ。」と言う声を聞いて安心して、「これなら何とかなる。」と希望を持てたはずなのに。午前7時半を回った頃でした。電話が鳴りました。病院からでした。「奥様の容態が今朝方、急変しました。とにかくすぐいらしてください。」足がガクガクしました。身体も震えました。車に飛び乗って病院に向かう途中も、「一体どうしたんだよ?何が起きたんだよ?」それだけが繰り返し頭に浮かんで来ました。
およそ20分後病院に着き、中村先生から説明を受けました。「今朝3時から6時までの間だと思いますが、再度出血がありました。今昏睡状態で、緊急に手術をしませんと、命が危ないと思います。」「お願いします。」僕は、緊急手術を承諾し、手術の際に大量の輸血も必要になるとのことから、「輸血・血漿成分製剤承諾書」にもサインしました。
手術開始は午前9時。色々な人が慌ただしく動き回っていました。この僕は何ひとつ彼女の手助けが出来ず、手術室に運ばれて行く彼女をただ見送るしかありませんでした。手術終了は午後2時半頃。その後、中村先生から手術について説明を受けました。「右側頭葉に再出血があったようです。脳ヘルニアの兆候が見られ、脳と脊髄を繋ぐ脳幹の障害があることを示す瞳孔不同があり、光に対する反射も見られなくなったため、緊急に手術を行ないました。腫瘍は極力摘出しましたが、出血がひどく取り切れてはいません。現時点で出来る限りのことはやれたと思います。腫瘍の確定は、病理の先生に依頼しますが、1週間から10日ぐらいはかかります。」
昨日の晩まで、容態が快方に向かっているように見えた彼女が、しかも先生も安定していると言っていた彼女が何故?先生から説明を受けながら、そんなことが頭を巡っていました。確かに急変もあり得るとのことではあったけれど。
後日、中村先生はこうも言いました。「少なくとも、私が担当した中で、これだけ短い期間でまた出血するというのは初めてのnケースです。予想以上に進行が速いのかも知れません。」
病状の進行?彼女の脳の中にまだ残る腫瘍は、これからまた出血するのか?
僕の頭にはまた、不安だけが渦巻いていました。
一般病棟に移ったのはわずか4日ほどでしたが、敬子は、点滴も外されていて、11年前、沙羅を宿して、大事を取って入院した時とさほど変わらぬ様子でした。しかし、何度かのCTスキャンやMRIなどの精密検査で、入院当初の「右側頭葉脳内出血一部脳室内血腫が見られる」という診断から「どうしても脳腫瘍の疑いが晴れず、最終的に確実な診断をするために開頭手術が必要である」と見方が変わっていました。
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それから病室に行きました。その日の彼女はだいぶ気分も良くなっていたらしく、「歩きたいな。」と言うので、僕の肩につかまってベッドを降り、歩きました。少しふらついているようでしたが、一歩一歩確かめているようでした。「一般病棟に移れてほっとしたわ。」「そうだな。手術すればきっと良くなるよ。頑張ろうなママ。」「うん。」
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その夜の8時半頃、電話が鳴りました。驚きました。病院から?また彼女に何か起きたのか?急いで電話を取りました。
彼女からでした。「私、ママです。看護婦さんにそばにいてもらって電話してるの。沙羅や葉奈の声がどうしても聞きたくて。」「沙羅、ママから電話だよ!」僕はすぐに沙羅に電話を渡し、お母さんとお風呂に入っていた葉奈にも取り次ぎました。「ママ元気になってね。葉奈も頑張ってるから。」二人ともママに声が聞けてすごく喜んでいました。そして少し安心したようでした。彼女も「よかった声が聞けて。ママ頑張るから。」と、とても嬉しそうでした。「解った。また明日行くからね。それじゃね。おやすみママ。」「うん。おやすみ。」
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そうして電話は切れました。10分ぐらいの短い出来事でした。でもすごく嬉しかった。「大丈夫だ。これならきっと良くなる。」不安は消え、何か希望が湧いて来る感じがしました。
でも、それが彼女の言葉を聞いた最後でした。
「これ以上精密検査を重ねても、最終的な診断をすることは出来ません。そのためには開頭手術を行なって、病理組織診断を行なう必要があります。出来れば手術を10月12日に行ないたいのですが。」その日、中村先生からそう伝えられました。開頭手術。見た感じは次第に回復して来ているように思えただけに驚きました。
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明くる日は朝から雨が降っていました。午後3時。面会に行きました。敬子は少し眠そうでしたが、だいぶ元気を取り戻しているように見えました。
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「ちょっと相談があるんだけどいい?昨日中村先生と話したんだ。これまでの色々な検査で、脳出血があったことは確実に判ったんだけど、それ以上詳しくはCTスキャンやMRIだけじゃ判らなくて、確実に診断するために開頭手術をして、摘出した細胞を顕微鏡を使って分析しないとダメ見たいなんだ。僕はそれが最善の方法ならやった方がいいと思うんだけど、ママはどう思う?」
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しかし、彼女にそう伝えて、家に戻る途中、思ったよりは容態は良くないのかも知れない。そんな不安がふと過ぎりました。あんなに気丈に手術を受け容れた彼女に済まないと思いました。
でもどうしてもその不安を拭い切れませんでした。
敬子は9月25日に倒れました。あまりに突然でしたが、今にして思えば。その少し前に兆しはあったのかも知れません。9月の初め、沙羅が通う小学校で夏祭りがあった時、気分が悪くなって、家に戻ってしばらく休んだことがありました。
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彼女も僕も「夏バテ」と思って、さほど気にかけませんでした。しかし良く考えると、気になることがありました。「頭が痛い。」と彼女は言っていたのでした。数日後、その頭痛も消えましたが、「頭が痛い。」と言ったのは、実は長い間一緒にいて、初めてのことでした。
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倒れた後で、色々調べたら、脳腫瘍の典型的な症状は「頭痛」ですし、突発性てんかんと診断された後、時々発作が起こり、一瞬ではあったけれど、「歩き方や話の内容や話し方がおかしくなる」というのも、もしかすると関連があったのかも知れません。
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「今年は暑いが続いてやんなっちょう。さすがにバテたわ。」としきりにこぼしていたこと。確かに今までよりは、疲れてだるくなったり、眠くなったりすることが多かったこと。もう少し注意深く見ていれば、彼女の微妙な変化に気づいたかも知れない。彼女が「大丈夫、大丈夫。」と言っていたその言葉にもしかしたらいつもと違う意味が込められていたかも知れない。
そう思うと、やり切れない悔いが残ります。
その日の敬子は、普段と変わらぬ様子でした。夕方に、ご近所の神武(コウタケ)夏子さんのピアノコンサートが銀座の王子ホールで開かれることもあって朝から色々と忙しく動き回っていました。
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コンサートには、彼女の知り合いも大勢来ていて、「お久し振り。元気だった?」と声をかけ合ったり、とても和やかでした。ピアノにも聴き入って、「すごく良かった。何度も聴いたけど、やっぱりサティの曲がすきだなぁ。」と感想も言っていました。コンサートが終わってから、沙羅を連れて久し振りに銀座を歩き、アイスクリームを食べたりしてちょっと時間を過ごしました。
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午後10時を過ぎた頃でした。「ダダ!大変!ママが倒れてる!」3階から沙羅の驚いた声。僕は階段を駆け上がりました。彼女はベッドに倒れ込むようにして、朦朧とした感じで、「頭が痛い。」と繰り返していました。そしてむせ返るような仕草の後、ひどく吐きました。
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僕はとにかく急いで救急車を呼びました。午後11時を過ぎた頃でした。救急車が到着したのが、およそ20分後。どんな様子だったかを訊かれたので、出来るだけ正確に伝えようとしましたが、良くは憶えていません。とにかく慌てていました。
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「一体何が彼女に起こったのだ?」病院へ着くまでの間、僕にはそれしか頭に浮かびませんでした。
2000年9月25日、深夜。妻敬子は、突然病に倒れました。
様々な精密検査、そして開頭手術、病理組織診断の結果、
多形成神経膠芽腫という最も悪性度の高い脳腫瘍に冒されていることが判りました。
あまりに突然で、僕はうろたえました。
「どうして敬子が?」
「あんなに元気だったのに何故?」
「一生懸命家族で頑張って来たのに。」
「まだ40を過ぎたばかり。これからもっと
楽しい時間を一緒に過ごしたいと思っていたのに。」
そんなことばかりが頭に浮かんで、絶望的になってしまいました。
でも色々な方の励ましや支えのおかげで、
そして最期まで自分らしい生き方を全うした彼女のおかげで、
僕は立ち直るきっかけをもらいました。
この本は彼女の199日の闘いの記録です。
と同時に僕たちが一緒に過ごした日々の記録です。
彼女に関わりの深い方には、彼女がどんな風に生きたかを伝えたくて。
また、僕がまだ知らないでいる彼女のことを教えてもらいたくて。
また愛する人の突然の病に、僕と同じような経験をされた方には、
僕たちのこれからの生き方に励ましやアドバイスをいただきたくて。
今もご家族が、愛する人が病と闘っておられる方には、少しでも心を癒やせたら。
彼女が僕に残してくれた沙羅、そして葉奈の二人の娘には、
僕たちがどんな風に出会い、どんな想いで二人を育てたのかを
いつの日か想い出して欲しいから。
ここに記されているのは、ごく普通の二人のそして家族のことです。
でもどんな人にも起こりうることでもあります。
分かち合えば喜びは倍になり、痛みや悲しみは半分になると言います。
この本がそんな力を持っていればいいなと思います。
そしてぜひ、大切な人と読んでいただけたらとも思います。
2001年4月11日。小社取締役でもあった妻、柴田敬子は2000年9月脳腫瘍に倒れ、半年に及ぶ闘病の末、この世を去りました。
その間励まし、力づけていただいた多くのみなさんと妻への感謝の気持ちを込めて、一冊の本に著そうと思い立ち、出来上がったのが、この一冊です。
発行者:柴田 英雄
発行所:シーバーズ・ワークショップ
編集・デザイン:荒木デザイン室
製版・印刷・製本:オー・ジー・シー