My Dear Keiko & BETTY Fund (preparatory committee)

●マイ・ディア・敬子/自費出版(2001)

2001年4月11日。小社取締役でもあった妻、柴田敬子は2000年9月脳腫瘍に倒れ、半年に及ぶ闘病の末、この世を去りました。 その間励まし、力づけていただいた多くのみなさんと妻への感謝の気持ちを込めて、一冊の本に著そうと思い立ち、出来上がったのが、この一冊です。

発行者:柴田 英雄        発行所:シーバーズ・ワークショップ
編集・デザイン:荒木デザイン室        製版・印刷・製本:オー・ジー・シー

「マイ・ディア・敬子」に興味を持っていただいて、ありがとうございます。
ご意見・ご感想そしてアドバイスをいただければ幸いです。

ご意見・ご感想・アドバイス/本のご注文は、有限会社シーバーズ・ワークショップまでお願いいたします。gimlet@c-bars.co.jp

●本の代金の振り込み/ベティ基金へのご協力は、お手数ですが下記口座までお願いいたします。
城南信用金庫 経堂支店 普通預金    口座番号353195    口座名 ベティ基金 柴田 英雄

●郵便振替もご利用いただけます。
豪徳寺駅前郵便局 00150-1-114176番 ベティ基金 

ベティ基金の設立にご協力ください。

妻、敬子の死は、僕自身に大きな変化をもたらしました。
何かこの僕に出来ることはないかと考えるようになりました。
そして今も、この本の売り上げや、みなさんのご協力やアドバイスを基に、
「ベティ基金(Betty Fund)」が設立出来ないものかと考えています。
そこでは
●彼女と同じ脳腫瘍をはじめ、重い病と闘うみなさんが、情報交換出来る場・機会を創り出し、お互いに励まし合えれば。
●脳腫瘍という、今もなお未知の部分が多い領域の研究を支援出来れば。
●彼女と同じような年齢の女性はもちろん、多くのみなさんが、もっと健康に配慮出来るきっかけ作りが出来れば。
●高度医療を受けるために必要な治療費を一時的に支援出来れば。
というようなことを考えています。

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2005年09月20日

My Dear Keiko

●ご意見・ご感想・アドバイスそして本のご注文は・・・

「マイ・ディア・敬子」に興味を持っていただいて、ありがとうございます。
ご意見・ご感想そしてアドバイスをいただければ幸いです。

ご意見・ご感想・アドバイス/本のご注文は、
有限会社シーバーズ・ワークショップまでお願いいたします。
gimlet@c-bars.co.jp
●本の代金の振り込み/ベティ基金へのご協力は、お手数ですが下記口座までお願いいたします。
城南信用金庫 経堂支店 普通預金 口座番号353195
口座名 ベティ基金 柴田 英雄
●郵便振替もご利用いただけます。
豪徳寺駅前郵便局 00150-1-114176番 
ベティ基金 

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My Dear Keiko

ベティ基金の設立にご協力ください。

妻、敬子の死は、僕自身に大きな変化をもたらしました。
何かこの僕に出来ることはないかと考えるようになりました。
そして今も、この本の売り上げや、みなさんのご協力やアドバイスを基に、
「ベティ基金(Betty Fund)」が設立出来ないものかと考えています。
そこでは
●彼女と同じ脳腫瘍をはじめ、重い病と闘うみなさんが、情報交換出来る場・機会を創り出し、
   お互いに励まし合えれば。
●脳腫瘍という、今もなお未知の部分が多い領域の研究を支援出来れば。
●彼女と同じような年齢の女性はもちろん、多くのみなさんが、もっと健康に配慮出来る  
   きっかけ作りが出来れば。
●高度医療を受けるために必要な治療費を一時的に支援出来れば。
というようなことを考えています。

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2005年09月11日

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/2001年4月12日〜14日。/送る言葉。(抜粋)

 お別れ会の最後に親族を代表して、僕が送る言葉を述べることになっていました。しかしそうは言われたものの、何を言えばいいのか最後までまとまらず、その場でも胸が詰まって涙が出て来て、結局うまく言えませんでしたが、その時言おうと思っていたことはこんなことでした。
 「・・・・早過ぎる死でした。人の死はどんな場合も、残された者に悲しみ、辛さをもたらします。敬子の場合もあまりに突然で、しかもこれからやりたいことがたくさんあって、お互いに計画を練っていた矢先でしたから。
 重い脳腫瘍と診断された敬子は198日間一生懸命頑張ってくれました。沈黙の闘いでしたが、何度もくじけそうになった僕を窘め、勇気づけてくれました。そしてその人生を賭けて色々な宝を僕に残してくれました。そのひとつはたくさんの想い出です。僕は敬子が19歳の時に出会いました。ガールフレンドが、恋人になり、妻となり、そして母となる。それぞれの時を共に過ごせたことは幸せで、とても大切な宝になりました。二つ目は多くの友人たち。みなさんも得難く、そして何物にも代え難い宝です。闘病中、何度もお見舞いに来てくれて、励まし勇気づけてくれました。大好きな歌が病室に響いたこともありました。そんなみなさんのご助力が敬子に届きました。そして僕もどんなに辛くても決して負けない、あきらめない、自分からは降りない、そんな敬子を好きになったのだと思いました。三つ目の宝。それは僕に残してくれた愛する家族です。沙羅と葉奈。この2人がいなければ僕はただうろたえるばかりで、希望を失ってしまったかも知れません。2人の娘をとても愛していた敬子でしたから、これから敬子の分も愛して行きたいと思います。

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My Dear Keiko

from My Dear Keiko/2001年4月12日〜14日。/離別と不変。(抜粋)

 1日目は夜遅くまで親戚や仲間たちがいてくれて、お風呂に入れなかったので、次の日の朝、式場に出かける前に沙羅と葉奈と一緒にお風呂に入ることにしました。お風呂には水に濡れても大丈夫という面白い本が数冊置いてあって、その一冊に花言葉が書かれているのを沙羅が憶えていて、向日葵とスイトピーの花言葉を探してくれました。そう言えば、そんなことは全然考えていませんでした。とにかく敬子は向日葵が好きだったとか、単純にカーネーションよりはスイトピーがいいとか思いつきで選んだので、その花言葉など調べる余裕はありませんでした。「どんな風に書いてある?」と沙羅に訊ねました。「えーとねぇ。向日葵はね、これ何て読むのかな。なんとかマンと不変。スイトピーはね、何とかガクと何とかベツ。」「それじゃ解んないよ。どれどれ見せてよ。」沙羅から本を渡されて、見てみました。色々な花言葉がありました。昔、彼女にバラを贈ることもあったので、バラにしようかとも思ったのですが、バラには色ごとにずいぶん花言葉が違うことも判りました。贈る時はいつも赤いバラでしたが、その花言葉は情熱、純愛、でもそれが黄色なら嫉妬、不実に変わるのでした。最初献花にしようと思ったカーネーションは、赤は慈悲、白は純愛、黄色は軽蔑、縞は拒絶。花言葉のことを考えると実は花選びはかなり難しいのだと思いました。そんなことは全然考えもせずに選んだ向日葵とスイトピーはどんな花言葉を持つ花なのか。探しました。なるほど5年生になったばかりの沙羅には確かに読み方は難しい。向日葵は、傲慢、不変、スイトピーは歓楽、離別。傲慢というのは彼女には当たらないけれど僕には当て嵌まるかも知れない。でも不変というのはとてもいい。スイトピーはまさに献花には相応しい花言葉を持つ花だったのだと初めて知りました。
 離別と不変。彼女のお別れ会に、そんな言葉を持つ花を選んだ。別れることは確かに悲しい。でも彼女を想い出せば、彼女と別れることはない。きっとどこかで僕たちのことを見守ってくれるはずだから。そんな想いを変わらず持つこと。それが彼女のために出来ること、これまで僕たちにしてくれたこと、残してくれたことに感謝することなのだと。「愛されることは長続きはしないけれど、愛することはいつまでも続く、その想いがある限り。」いつか読んだ本の中の一節が浮かんで来ました。
 「よし、このことも送る言葉を言う時に、絶対に話そう。」
 でも実際には、胸が詰まって涙が出て来て、しどろもどろになってしまい果たせませんでした。

at 23:10 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/2001年4月12日〜14日。/人と人を繋ぐ人。(抜粋)

 お別れ会には本当に大勢のみなさんが集まってくれました。敬子の幼馴染み、高校、大学時代からの仲間たち、会社勤めの頃の上司や同僚、保育園の、幼稚園の、小学校の、色々なサークルの友人そして子どもたち、ご近所のみなさん、沙羅や葉奈のことを憶えていてくれて商店街の八百文さんまで。そして彼女を良く知る僕の古くからの仲間たち、友人たち、バンド仲間、会社勤めをしていた頃の上司、同僚たち、草野球チームの仲間たち、仕事仲間、クライアントのみなさん、家族ともども可愛がってくれたお店のご主人たちもご夫婦で。家族でお世話になった彼女の大学の大先輩も。多くの電報も届きました。多くの花も届きました。予想をはるかに上回り、集まっていただいたみなさんは両日で600人近くに上りました。数日後、遠くにいて来れなかったというメールも届きました。ブラジルから、ドイツから。盛大に、晴れやかに送ってあげたいと思っていた僕の望みはこんなにも多くのみなさんによって実現出来ました。彼女もきっと驚いたでしょう。そしてとても喜んでくれたでしょう。
 集まってくれた中には、大学を卒業して以来会っていない友人もいました。彼女が再び引き会わせてくれたのだと思いました。集まってくれたみんな彼女に起こってしまったことに驚き、残念だ、気を落とすなと励ましてくれましたが、「ぶるちゃんって、向日葵が好きだったんだ。知らなかった。でも確かに似合ってるよ。」「大好きな歌が流れてて、きっとぶるも嬉しいと思うよ。」「こんな送り方もあるんだなって思ったよ。感心した。」と、彼女らしいお別れ会になったと言ってくれました。
 彼女がまだ闘病中、ご近所の神武(コウタケ)さんのお宅にみなさんが集まってパーティーをしたことがありました。うろたえてすっかり気弱になっていた僕を元気づけるために招いてくれたのでした。その時神武さんがこんなことを言っているのを思い出しました。「敬子さんはさ、いつもいろんな人たちの真ん中にいるのよ。そんな気がする。お互いなかなか話せないでいた人も彼女がいることで打ち解けて友だちになっちゃう。そんな感じなのよね。」確かにそうかも知れないと思いました。
 お別れ会はまさにそんな彼女を表していました。共通の友人が多かったのですが、初めてお目にかかる方もとても多く、彼女が本当に多くのみなさんと交流していたことに驚き、感じ入りました。
 彼女はまさに「人と人を繋ぐ人」だったのだと。そんな彼女のおかげで、僕も色々な方と巡り会えたのだと。

at 22:31 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/ホーム・アゲイン。

 その後間もなく、敬子は病院の地下1階にある安置室に運ばれました。その間病室の後片付け、退院の手続きなども矢継ぎ早に済ませました。彼女を送るために早速葬儀にことを考えなければならず、病院から紹介された葬儀社の方と打ち合わせをして取りあえず日取りを決めました。いよいよ病院を出る時刻。中村先生をはじめ、色々彼女の世話をしてくれた看護婦さんたちも数人お別れに集まってくれました。改めて「ありがとうございました。」とお礼を言って病院を後にしました。外に出ると午後の強い陽射しが眩しく、汗ばむほどの陽気でした。
 それから20分ほど。午後2時を少し回った頃、199日振りに彼女は家に戻りました。無言の帰宅になってしまったことはとても残念でしたが、家族の元へ。帰りたがっていた僕たちの家に。
 床を取り、慎重にドライアイスを配して、彼女は横になりました。「お帰り、敬子。ママ。」そう声をかけて彼女の顔を見ました。本当に安らかな顔をしているので驚きました。「いい顔になったわね。本当に家に帰りたかったのね。」とお母さんが言いました。僕は特別信心深い訳でもなく、そんなことをすぐ信じる訳でもない極めて現実的なタイプだと思っていました。でもその時は心からそう思いました。確かに微笑んでいるように見えるのです。改めて、彼女はこの198日間、何も語ることはなかったけれど必死に病と闘っていたのだと。そして今その闘いから解放されて家に戻り、心から安心しているのだと。確かに身体は冷たくなりました。でも身体中にあった緊張は解け、不思議なことに床ずれの鬱血や首や顎にかけての発疹も薄れてほとんどんなくなっていました。その晩家を訪れてくれたご近所のみなさんや、大学時代のバンド仲間も、「きれいないい顔してる。」と言ってくれました。ギターを引っ張り出して、みんなで彼女が好きだった曲を思いつくままに演奏しました。病室にいる時味わっただろう寂しさを紛らわすために。元気だった頃はごく当たり前だった、賑やかで楽しい気分を想い出してもらうために。
 夜も更けて。みなさんも帰り、沙羅も葉奈も眠って、2人だけになりました。「お帰り、敬子。ママ。」もう一度そう声をかけました。しばらく顔を見ていました。「ただいま、ダダ。」と言っているようでした。いつもベッドで見ていた寝顔のように安らかでした。キスしました。
 そしてまたギターを手に取り、彼女とデュエットした曲を歌いました。
 その時のことを想い出しながら。心を込めて。彼女だけのために。

at 20:57 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/「ありがとう。」

 すぐに両国の両親と僕の実家に、そして学校に出かけている沙羅と葉奈を引き取ってもらうためにご近所の佐々木さんに、弟廣次の仕事場に、敬子の、僕の友人たちに。思いつくままに電話をかけ、彼女が最期を迎えたことを知らせました。中村先生が来てくれて、「奥様はとても残念なことでした。正式な時刻は午前11時35分でした。早速ですが、頭の膨れている部分を元のように戻してあげたいと思います。それからお顔などもきれいにしてあげたいのですが、よろしいですか。」と言ってくれました。「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
 先生方が最後の身支度をしてくれている間、外を見ながらみんなが来るのを待ちました。空は晴れ、陽射しが眩しいほどの良い天気でした。ただ、風が強いらしく、雲がとても速く動いて行きました。これまでの彼女の闘いの日々が浮かんで来ました。長かったのだろうか、短かったのだろうか。良く解りませんでした。ただその最期がまりに突然で呆気なかったことに戸惑っていました。何も言えなかったけれど、彼女が息を引き取ったその刻、「敬子。ママ。ありがとう。」と声をかけました。やはりそれが一番に言いたかったことなのでした。ご近所の藤波さん、佐々木さんたちに連れられて沙羅、葉奈が着きました。「ママね、一生懸命頑張ってくれたんだけどな。天国に行ってしまった。沙羅、葉奈、ダダは何もしてやれなかった。ごめんな。でもママは本当に頑張ったぞ。だからありがとうって言ってあげような。」葉奈は涙ぐみ、沙羅は泣きたいのを我慢しているようでしたが、「うん。」と言ってくれました。ほどなく彼女のお父さん、お母さん、僕の弟廣次も集まりました。病室に入りました。膨瘤から髄液や血腫を抜き取る処置を行なったために、彼女の頭には包帯が巻かれていました。もしその刻が来たら着せてあげようとお母さんが用意してくれていたピンク色のきれいな浴衣に着替えてあり、顔もきれいにお化粧が施してありました。身体に繋がれていた色々な管も全てはずされ、とても穏やかな顔をしているように見えました。そして病室はとても静かでした。
 みんなで順番に彼女に話しかけました。「敬子!・・・・・・・。」「敬子、頑張ったね。やっとお家に帰れるね。良かったね。」「ママ、ありがとう。」「ママ、ありがとう。」「・・・・・・・・。」
 「色々手を尽くしていただいて本当にありがとうございました。」傍にいてくれた先生や看護婦さんにお礼を言いました。
 中村先生も涙を流しました。家に戻ってお母さんから聞かされて、それを知りました。

at 20:29 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/2001年4月11日。

 その日とても早く目覚めました。沙羅と葉奈を送り出し、早めに家を出ました。病室に着くとすぐ「おはよう、敬子、ママ。気分はどう。」と声をかけました。脈拍90。血圧61-36。血圧が低くなっているのが気にかかりましたが、その頃毎日していた通り、大好きなキャロル・キングのCDをかけ、顔や手足を拭いてから、髪の毛を梳かそうとした時のことでした。手術をした部位とは関係のない左後頭部にひどい鬱血があるのに気づきました。こんな所に床ずれが?と不思議に思い、ちょうど朝のお世話に来てくれていた看護婦さんにそのことを伝えました。看護婦さんも気づいていなかったようで、「頻繁に頭の位置は変えていましたから、床ずれではないと思います。もしかすると化膿しているかも知れません。すぐ先生と相談して処置してもらうようにしますので、少し外でお待ちいただけますか。」と言って先生と連絡を取り、処置の準備を始めてくれました。その間、病室を出て、待ち合いスペースにいた時でした。何人かの看護婦さんや先生がバタバタと忙しく走り始めていました。「どうしたんだろう。」と思っていたら、「柴田さん!病室に戻ってください!」と看護婦さんの呼ぶ声がして、すぐ病室に戻りました。
 驚きました。ほんの15分ぐらいしか経っていないのに、確かに低いのは気になってはいましたが、血圧を示す計測器のデジタル数字がどんどん下がり、上下とも「0(ゼロ)」になろうとしていました。脈拍も急激に下がり始め「13」。血圧はほどなくともに「0(ゼロ)」になってしまいました。本当に突然に彼女の心臓が停止したのでした。駆けつけてくれた中村先生も様子を見守っていましたが、「このまま、人工呼吸器をつけたままにして置きますと、肋骨が折れてしまうかも知れません。はずしてもよろしいですか。」と言いました。涙と嗚咽が止まらず、胸が詰まり、すぐには声が出て来ませんでした。「お願いします。」そう言うのが精一杯でした。人工呼吸器がはずされました。中村先生が彼女の右の手首に手を当て、脈を確認しました。そして「誠に残念ですが、ご臨終です。」と言いました。ほんの短い間の出来事だったのかも知れませんが、長く本当に長く感じられました。
 ついにその刻が来てしまいました。彼女の「生きる力」の終わりはあまりに突然に、あまりに呆気なく。いつかその刻はやって来る。僕に出来ることは最後までしっかり見守ることなのだ。そう覚悟はしていたはずなのに、すぐには信じられず、悲しくて涙が止まりませんでした。
 彼女の手を握り、額にキスしました。まだ温もりが残っていました。

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My Dear Keiko

from My Dear Keiko/黄色いワンピース。(抜粋)

 余命宣告の最初の関門、半年を10日ほど過ぎていました。元気だった頃の敬子とは全く違っていました。でも、彼女は自らの意志で日々を生き抜いている。そのことを尊重しなければ。それに必死に頑張るのには、理由があると思っていました。葉奈の入学式でした。ここまで弱り切って、痩せ衰えても、そのことを見極めたいのだろうと。病に倒れ、少し持ち直したその時も、葉奈の幼稚園最後の運動会を気にかけて、行きたがっていましたから。意識はとうとう戻らず、呼吸さえも止まってしまい彼女とは話すことは出来ませんが、「葉奈の入学式もうすぐね。」そう言っていると思いました。
 2001年4月6日。穏やかな朝でした。バーバが見立ててくれた黄色いワンピースを着て、ジージ、バーバから贈られた真新しいランドセルを背負って、元気に家を出ました。1年1組さん。教室に入る葉奈は少し緊張していたようですが、晴れやかで嬉しそうでした。上級生に手を引かれて体育館に入って来た時、僕を見つけてニッコリと笑ってくれました。彼女にも見せたかった素晴らしい笑顔でした。式は1時間ほどで終わり、葉奈の記念すべき小学校第1日目は終わりました。「葉奈、1年生だね。ちょっとおねえちゃんになったね。」「うん。葉奈ね、頑張るから。ママも頑張ってるから。」「そうだな。ママもそう思っているよ。入学式に来れなくて残念だったけどな。」
 家に戻り、着替えて食事を済ませると、早速病院へ行き、入学式のことを彼女に伝えました。「ママ、入学式に行って来たよ。葉奈、嬉しそうだった。バーバが選んでくれた黄色いワンピースがすごく似合ってた。やっぱり明るい色が葉奈らしいな。1年1組さんだよ。」前日35℃まで下がった体温は一転して上がり始めていました。身体中が火照っているようでした。
 葉奈の小学校入学。新しい生活の始まりです。その頃ずっと考えていたことがありました。仕事もほとんど手につかない状態だったこともあって、或るスポンサーの仕事がなくなることが決まり、大きな損失になりそうでした。でも、そんなことを気にかけている余裕も意味もないように思えました。彼女は命を賭して、何かを訴えている。そんな彼女を見守らなければ、これまで2人で築き上げて来たことの意味は崩れる。損失はいつか埋められるが。
 「ダダ、もう一度初めからよ。今度はダダが自分で切り拓くのよ。私はもう手伝ってあげられないから。頑張って。私の分も。」

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My Dear Keiko

from My Dear Keiko/或る朝。(抜粋)

 敬子はどんどん痩せて来ていました。抵抗力が落ち、首から顎にかけて帯状に、そして額と頬にも赤く発疹が出来始めました。結膜浮腫が起き、涙腺の周辺の肉が剥き出しになってしまい、乾燥を防ぐために両目がガーゼで覆われました。これまでなかった床ずれも出来始め、左の踵や右のふくらはぎにひどい鬱血が見つかりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 日々変動はあるものの血圧は安定し、脈拍も呼吸が止まった時点よりはかなり少なくなって落ち着いて来ていました。しかしもうこれは「生きている」のではなくて、「生かされている」に過ぎないのではないか。そんな風にしか考えられなくなっていました。お母さんも「もう敬子は十分に頑張ってくれたわ。とにかく早く楽にしたあげたい。人工呼吸器をはずしてやれないのかしら。」と言いました。気持ちが痛いほど解りました。最後まで見届けると決めた僕も揺れていました。
 そんな或る朝。いつもより早めに病院に着いた僕は、偶然中村先生に会いました。容態を気にかけて毎朝晩看に来てくれているようでした。思い切って訊ねました。「正直言って日々妻の様子が変わって行くのを見るのが辛くなって来ました。お母さんも楽にしてあげたいと言っています。僕も迷ってはいるのですが、人工呼吸器をはずしてあげることは出来るのでしょうか?」「どうしてもとおっしゃる場合はご家族みなさんの同意が得られれば、はずすことは出来ます。事実私が医者に成り立ての頃はそういうこともありましたが、今は少ないと思います。それと確かにこんな状態になってしまったことはとても残念ですが、そこから頑張って来られたことで、色々な方とお会いすることも出来ました。奥さんはご自分の意志でこの途を選びここまで持ち堪えているのだと、私は思います。それにもしご主人が迷っておられるのなら、人工呼吸器をはずすのは止めた方がいいと思います。」
 自らの意志。人工呼吸器に頼らなければもう明日はない。しかし彼女は今日も生き抜いた。何故そんなに頑張るのか。何が彼女をそうさせるのか。苦しく辛いのではないか。楽になりたいと思っているのではないか。そんな想いが頭を占めていましたから、中村先生の言葉にハッとさせられました。
 彼女の「生きる力」に任せて最後まで見届けると決めた。それは彼女の意志を尊重することでもある。どんなに変わり果て、それを見るのがどんなに辛くても、それが彼女の選んだ途なのだと。

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My Dear Keiko

from My Dear Keiko/桜の花の散る前に。(抜粋)

 いつものように寒さの堪えた冬だったのに、桜の開花はいつもより早かったらしく、東京では例年より1週間ほど早く満開の時期を迎えていました。その頃は毎日お母さんかお父さん或いは2人が病室に来て敬子の傍にいてくれました。特にお母さんの悲しみは想像をはるかに超えるものであったと思います。自分のお腹を痛めた娘が、自分より先に旅立ってしまう、しかもそれが明白な事実となってしまう刻が確実に近づいている。傍でその現実を見守ることの身を切られるような辛さ、無念はおそらく僕やお父さん以上であったろうと。それらに耐えて彼女の髪を梳かしたり、手足を拭いたり、愛する娘の世話をしてくれていました。
 「お母さん、敬子のあごの所に小さな傷がありますよね。前に聞いたことがあるような気がしますが、大変だったんですか。」「そうね。あの時はびっくりしたわね。お風呂で転んじゃってね。すごく血が出ちゃって。お医者さんが出来るだけ傷ののこらないようにって慎重に縫ってくれたわ。」「敬子はね。初めての孫だったの。だからすごく色々な人に可愛がられて育ったのよ。学校の先生にもね。高校に受かった時も、頑張れって贈り物をくれたりね。」「こんなことになってしまって済みません、お母さん。」「英雄さん、そんなことはもういいのよ。敬子は幸せだったわよ。それに英雄さんにこんなに傍にいてもらえて。ちょっと急ぎ過ぎたのね。ねぇ敬子。早く家に帰りたいわよね。沙羅や葉奈が待ってるからね。桜の花が散る前に帰りたいね。もうそんなに頑張らなくてもいいのよ。楽になっていいんだからね。」ほかにも色々なことを話しました。彼女の小さい頃はお母さんはものすごく忙しくていつも彼女を負ぶって仕事や家事をしていたこと、高校はとても遠くて毎日送り出すのが大変だったこと、でも楽しそうだったこと・・・・。そしてこうも言いました。「毎日敬子を見ていると辛くなるの。早く楽にしてあげたいって思うの。人工呼吸器をはずしてあげられないのかしら。」
 呼吸が止まってからは、栄養も摂ることが出来ず、急に痩せて来ているように思えました。もともと小柄で華奢な身体付きだったけれど、さすってあげると肩のあたりが急に骨張ってしまって本当に細っているのが判りました。ふっくらと丸みのあった頬もこけて来たように見えました。膨瘤の部分も茶色に変色して来ていました。元気でいた頃とはすっかり変わってしまった彼女を見るのは本当に辛い。お母さんがそう思うのも無理はないと思いました。
 桜の花の散る前に。彼女のためにもそれがいいのだろうか。お母さんの言葉が残りました。

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My Dear Keiko

from My Dear Keiko/体温。(抜粋)

 呼吸が停止してからは、敬子の身体の動きも目の動きもなくなってしまいました。看護婦さんに啖を引いてもらう時苦しそうにもがいていた、それさえも。しかし血圧、脈拍は彼女の闘いを物語るかのように日々変動していました。時に140を越える脈拍。上が80を下回るのが続くと状況はますます厳しいと言われた血圧。そしてもうひとつ、日々変動していたものがありました。それは体温でした。それまでのように38℃を越える高熱になる日があると思えば、手足や額に触れると驚くほど冷たくて、その度に不安になりました。たまたま朝中村先生に会えて、そのことを訊ねました。「この所、脈拍や血圧もそうですが、体温も日によって変動が激しくて、かなり低くなってしまうこともあるようなのですが。」「前にもお話ししましたが、呼吸が止まってしまった一番の原因は、腫瘍からまた出血があったことで、前回は緊急手術をして回避した脳ヘルニアが起こり、いや今回は完全に出来上がってしまい、脳幹が再度大きなダメージを受けてしまったことだと考えられますが、その影響を受けて体温調節を司る自律神経系の中枢も壊れてしまったからだと思います。尿の量も毎日調べていますが、今の所はしっかり出ていますね。」「尿の量が減るということにはどんな意味があるのですか?」「腎機能が低下し、腎不全を起こし、重篤な状態に陥る可能性も出て来てしまいます。」
 脳腫瘍が引き金になって、彼女の身体のあらゆる機能に変化が起こっている。本人の意識は戻らず、身体も動くことはないのに次々と過酷な試練が襲って来る。その残酷を恨みたくなる一方で、脳という器官が元気でいることにこんなにも密接に関わっているのだということを痛感させられました。彼女がここまで「生きる力」を振り絞れるのは、脳以外は極めて健康な状態だからでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 結婚して15年、病気らしい病気をしたこともなく、みんなと元気に楽しく過ごして来た彼女が初めて経験した重い病。それがこんなにも深刻なものになってしまうなんて。それが未だに信じられないことがありました。葉奈が自転車の練習をしていた時に、外に出て来て笑いながら、僕たちを見ていた時の優しい顔、忙しい合間を縫って鍵盤に向かっていた時の神妙な顔、・・・・。何もなければ、想い出すこともなかったかも知れないさりげない表情が突然浮かんで来たりしました。
 彼女は、静かにただ静かにベッドに横たわっていました。

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My Dear Keiko

from My Dear Keiko/呼吸停止。(抜粋)

 呼吸が停止してから2週間が過ぎようとしていました。沙羅にクラスメート朋子ちゃんのお父さん、佐々木正寿さんが病室を訪ねてくれました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 その後一緒に1階に降り、病棟に挟まれた中庭のようなスペースで話をしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・・・・・敬子は走るのは遅かったけど長く走るとか泳ぐのは得意だったみたい。マラソン向きの筋肉してたのかな。佐々木さんはどうしてマラソン始めたの?」「どうしてですかね。だいぶ前のことですから良く憶えてませんね。ただマラソンしてると邪魔が入らず独りで考えることが出来るし、責任も全部自分にあるし。そんな所が好きなんだと思いますよ。」「そうか。マラソンってみんな観るのは好きだよね。ただ走ってるだけのようなのに画面に釘付けになっちゃう。きっと独りで闘ってる姿に魅入っちゃうんだろうね。普段みんな独りであることって特別に考えたり意識したりしないしね。」「実際の話、苦しいですよ。でも途中で止めちゃうとなんか悔しくて。ただそれだけなんですけどね。自分に負けちゃうのが悔しいから最後まで頑張っちゃうんですね。」
 取り止めもない話をして別れ、病室に戻りました。彼女は静かに横たわっていました。脈拍が落ち着いていたものの、呼吸が止まった直後は200に近づくほどで、それはまさに全力疾走をした後の胸の高鳴りほどの状態でした。もう身体の反応はありません。啖を引く時、苦しそうにもがいていたのに、それさえも。人工呼吸器が命の綱。外見はピクリともしないのに、彼女の心臓は時にマラソンランナーのように高鳴り、走り続けている。独りで。傍にいて見守ってはいても、その孤独を癒やしてあげられない。病との闘いはかくも孤独なものなのか。またしても何も出来ないもどかしさ、悔しさが残りました。一緒に走ってあげられれば、一緒について行ってあげられたら。彼女が死に直面しているその時に「人はその最期、また独りに戻らなければならない。」その厳しい現実が沁みました。
 でも「途中で止めたら悔しい。」彼女はきっとそう思っている。応援しなければ。最後の最後まで。
 たとえどんなに厳しく、辛くても、自分からは降りない。そんな彼女を好きになったのだから。

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My Dear Keiko

from My Dear Keiko/怖れ。(抜粋)

 僕の父は、東京は月島の生まれ。しかし沙羅ぐらいの年頃、12歳の時に両親を相次いで病気で亡くしました。遠縁を頼って妹と2人で福島県郡山市へ。預かって育ててくれた家がお蕎麦屋さんだったこともあり、以来その道に。20歳を過ぎた頃たった1度近くの飲み屋に繰り出して、ほろ酔いの父から小さい頃の夢は先生になることだったと聞いた憶えがあります。肉親を失った寂しさに耐え、やがて結婚し独立して、母と2人苦労して僕たちを育て上げてくれました。そんな生い立ちの父の資質を僕も知らず知らずのうちに受け継いだのかも知れません。独りであることに強いという或いは耐えて来たという資質。敬子もそれに似たものを僕と沙羅の中に見ていました。
 彼女の呼吸が停止してから1週間余りが過ぎていました。呼吸が停止したと聞かされて、いよいよその刻が来たのかと覚悟しました。しかしそこから彼女はまたも盛り返しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 毎日病院に詰めて、彼女の様子を見守りながら、色々な想いが過ぎりました。そしてその頃僕の心をずっと占めていた想いのことを考えました。それは怖れでした。彼女がいなくなってしまう、彼女を失ってしまうことへの。それが今避けられない現実となってしまう刻が容赦なく近づいているのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 彼女と知り合って得たことはたくさんありましたが、一番はどこかいつも孤独であることを感じて生きていた僕を癒やしてくれたことでした。独りに強いことと、独りが好きなこととは全く別なのだということを教えてくれたのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 10年ほど前母が病に倒れ、かろうじて一命は取り止めましたが、右半身麻痺と言語障害が残りました。その時きっと父が感じたであろう苦しさ、辛さ、無念を今度はこの僕が。これも不思議な巡り合わせなのだろうかとも思いました。そして多くを語ることのなかった父のこれまでの生き方が少し解ったような気もしました。
 「敬子、ママ。怖いよ。すごく。ママがいなくなったら僕はどうすればいいのか解らないよ。」
 人工呼吸器の規則的な音がひときわ大きく響いているようでした。

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My Dear Keiko

from My Dear Keiko/歌声。(抜粋)

 敬子の呼吸が停止した次の日、親友チイからこんなメールが届いていました。
「・・・・・・・こっこから柴田くんと話した内容を聞きました。・・・・・・・こっこからも伝えてもらったと思うけどぶるの最期の見送り方をどう考えるのか教えてください。ご家族だけでお別れしたい’ということであれば、もちろん遠慮させていただくし、是非見送ってほしいというのであればどんな状況でもすぐに飛んで行きます。・・・・・・・・。」
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 最期をどう見送ってあげるか。それには色々考え方があると思います。僕は迷わず、時間が許せば会って欲しいと返信しました。意識は戻ることはありませんでしたが、前にも仲間たちが来てくれたり、沙羅や葉奈のことを話すと、なんとなく嬉しそうな顔をしてくれると感じていましたから。
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 その日の午後。病室にまた高校時代の音楽サークルの仲間たちが集まってくれました。・・・・・・・「ぶる頑張って。好きな歌歌うから聴いてね。」と声をかけて、CDに合わせて「You've Got A Friend(君の友達)」を歌ってくれました。ドアを閉めて。少し控えめではあったけれど。その歌声は病室に静かに深く響きました。僕も彼女とデュエットしたこともあって、一緒に歌いました。
 とても心に沁みました。一番気の合った昔からの仲間たちから、お気に入りの歌を贈られた。きっとその歌声は彼女に届いた。素晴らしい贈り物。そして何より、最後の最後まで彼女を励まし気遣ってくれる、有り難く、得難い、仲間という宝。
 脈拍145-116。脈拍74-45。体温36.3℃。彼女は依然予断を許さぬ厳しい状態にありました。
 しかし、彼女はきっと喜んでいると思いました。

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My Dear Keiko

from My Dear Keiko/呼吸停止。(抜粋)

 2000年3月27日。敬子が倒れたから半年と少し。沙羅と葉奈は春休みに入って、久し振りに彼女の実家に遊びに行っていました。僕は朝から掃除、洗濯、書類や仕事の整理、といううちにあっという間に時間が過ぎ、軽く朝食兼昼食を食べていました。電話が鳴りました。病院からでした。「ご主人様ですか?さきほど敬子さんの呼吸が停止しました。今からすぐにおいでになれますか?」「は、はい。20分ぐらいで行けると思います。」「そうですか。お待ちしておりますので。」あまりに突然で驚きましたが、そう答え、大急ぎで身支度をし、実家に電話を入れ病院で待ち合わせることにしして家を出ました。
 彼女はすでに個室に移され、気管切開をした部分に人工呼吸器が繋がれていました。黒く小さなサンドバッグのような袋が規則的に膨らんでは縮み、彼女の呼吸の代わりをしていました。何種類もの薬剤がぶら下がり、脈拍や血圧を測定する機器なども運び込まれていました。救命救急センターに入った時のことを思い出しました。中村先生から説明を受けました。「今朝、先日お話しました通り、髄液を抜きました。その時点では状態は悪くありませんでした。膨瘤もだいぶ小さくなったと思います。しかし、その後再び膨れ出し、午後1時頃呼吸が停止しました。原因は特定出来ません。今はCT撮影も出来る状態ではありませんが、再び出血し、脳ヘルニアが起こって呼吸停止を引き起こしたのだと思います。瞳孔が開き始め、血圧の50-45まで急激に下がり始めたために、人工呼吸に切り替え、強心剤を投与して心臓の機能低下を抑えているという状況です。残念ですがかなり厳しい状況です。ご両親には連絡されましたか?」「はい。今娘たちと一緒にこちらに向かっています。」
 4人が到着すると、すでに来てくれていた荒木さんと橋本さんと入れ替わりに病室に入りました。娘たちは彼女を見て驚いていましたが、涙をこらえて「ママ、頑張って」と声を掛けました。再びお父さんと一緒に説明を受けました。お父さんもあまりに突然で呆然としていました。ここ数日熱がなかなか下がらず、表情も虚ろで、口を開け荒く息をすることもあって心配でしたが、まさかこんな形で容態が急変し、呼吸が止まってしまうなんて。
 ベッドに横たわる彼女は、目を薄く開け、呼吸が停止してしまったとは思えないほど、顔色も唇の色も良く見えました。ただ彼女の身体からではなく、傍らの人工呼吸器が音を立てているのがとても不思議な感じがしました。
 しかし今やそれしか彼女の命を繋ぐ術はなくなっていました。

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from My Dear Keiko/千羽鶴。(抜粋)

 敬子が病に倒れてから半年。中村先生から言われていた余命の最初の関門の日。熱がまたかなり上がり出していました。顔中に汗が玉のように噴き出していました。貌つきもいよいよ変わって来ていました。蒼ざめた顔色、朦朧として虚ろな眼差し、半ば開かれたままの口、喘ぐような荒い息遣い。「生きる力」を振り絞っているようでした。その頃はずっと熱が高く、時には38℃を越えてしまう日もあってか、ほとんど目を閉じていて、開けても生気がなくなって来ているような気がしていました。
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 病院から帰ると、電話が鳴りました。彼女に何かが起こったかと思って慌てて受話器を取りました。家族で可愛がってもらっているコーヒー豆の自家焙煎のお店「ビーンズ」のご主人橋倉さんからでした。「柴田さんですか。すみません、遅くなっちゃいましたけど、家内が折っていた千羽鶴が出来上がりまして。いつでもお渡し出来ますから。」「ありがとうございます。お気遣いいただいて。すぐ取りに伺います。」受話器を置いてすぐ、お店に向かいました。そして奥さんから千羽鶴を手渡されました。「すみません。こんなにご心配していただいて。」「そんなこと気にしないでください。こちらもお力になれなくて。」色とりどりの小さな折り鶴が丹念に繋がれて、お二人の心遣いに溢れた素敵な千羽鶴でした。そしてこんな言葉が書き添えてありました。「(サラちゃん、ハナちゃんの)ママへ。1日も早く快復出来ますように祈っております。」
 涙が溢れて来ました。彼女が快復することはもうかなり厳しくなってしまったけれど、本当に色々な方が彼女のことを気遣ってくれている。彼女が元気だった頃には気にかけることもなかった人のさりげない優しさや温もりがこんなにも心に沁み入る強さを持っていることを改めて知りました。明くる日。早速病室に千羽鶴を持って行き、薬剤がぶら下がっている器具の所に飾りました。「敬子、ママ。ビーンズの奥さんがずっと折り続けてくれた千羽鶴だよ。すごく心配してくれてる。」彼女は目を大きく見開き、何かを言いたそうでした。「辛い」と言っているのか、「生きたい」と言っているのか。呼吸は少し荒い感じはしましたが、触れると熱は落ち着いて来ているようでした。
 しかし、急変はまさに突然訪れたのでした。

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2005年09月10日

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/弱まり行く力。(抜粋)

 「余命は発症の時点から起算します。」2000年10月19日に中村先生からはそう告げられていました。敬子が受けた余命宣告は半年長くても2年。その後すぐ調べた時も、彼女のような悪性度の高い脳腫瘍の患者さんの5年生存率は7%と書かれていました。その半年が近づいていました。外見からは彼女の容態は安定していました。しかし彼女の「生きる力」は少しずつ確実に弱まって来ているように思えるのでした。
 面会に行く度、彼女の顔や手足に触れ、色々なことを話しかけていました。手足には脳の障害による四肢の麻痺の症状である硬縮がありました。しかし、それも以前に比べるとそんなに強いものではなくなっていました。彼女の手を取り、そして緩めると手は力なくダラリとするようになっていました。「ママ。敬子。僕だよ。気分はどう?」と話しかけると、薄く目を開けようとするのですが、大きく見開くまでは行かず、すぐ閉じてしまうことも多くなっていました。
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 彼女だったらどうするか?と考え、迷い、そして「5年生きる可能性はある。しかし意識の戻らぬままで生きることは決して彼女が望むことではない」と、再手術も放射線治療も抗がん剤治療も行なわないと肚を決めました。彼女が「生きる力」だけで彼女らしい生き方を全うするのを見守ろうと。しかし、その「生きる力」が徐々に弱くなって行くのを日々見守るのはやはり切なく、辛いことでした。
 寒の戻りがあって、毎日寒い日が続いていました。「今日はママ。また冬に逆戻りしちゃったよ。すごく寒いよ。ママも寒い?」と訊ねても、眠ったように静かに横たわっています。これまで何度も襲った厳しい局面を、彼女は何も言わずに乗り越えて来ました。強い精神力と意志そして体力で。しかしそれにも限りがあります。1日でも長く生きて欲しいと思って来ました。しかし傍にいて、それももうとても酷なことのように思えてならないのでした。
 「ママ。もうすぐ葉奈も卒園だよ。沙羅も1日も休まないで4年生を終えそうだよ。2人ともそのことをママに伝えたいんだ。ママ、頑張ったよって言いたいんだよ。だから、それまでは頑張ろうな。」
 その日の彼女は、やはり熱があり、目を開けてくれたのもごくわずかでした。
 でもきっと解ってくれていると思いました。

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from My Dear Keiko/尊厳ある死。(抜粋)

 敬子を痛みや辛さや寂しさから早く解放してあげたい。それはつまり彼女の死を望むことになる。今僕が彼女に対して抱く思いは、そういうことではないか。精一杯毎日を生きる彼女なのに、そんなことを考えるのはあまりに無慈悲なことではないか。自分で考えることが自分でも良く解らなくなっていました。そんな迷いを少しでも晴らすためにまた色々ホームページを検索しました。こんなことを書いてあるホームページがありました。
 「『尊厳ある死』(Death with Dignityー本来の意味での尊厳死)とは、人間としての尊厳を保って死にいたること、つまり、単に「生きた物」としてではなく、「人間として」遇されて「人間として」死に至ること、ないしそのようにして達成された死を指す。」
 余命宣告を受けた今、彼女が意に反した死に至ることは避けることが出来ない。そんな過酷な現実を前に、意識の戻らないでままでいる彼女に代わって僕が選んだ途は、彼女を「人間として」遇した、彼女らしさを全う出来るものになるだろうか。またそのことが過ぎりました。
 彼女は「生きる力」だけで色々な困難と闘っていました。依然として手術をした部分の膨れも、腫瘍も進行していました。貌つきも変わり、元気でいた頃の彼女の面影は日ごと薄れていました。そんな彼女を傍で見守っていて、これが本当に彼女らしい生き方なのかと思いました。自分の痛み、辛さ、寂しさを言葉に出来ないままで日々を生きることが。延命を続ける毎日が。そのホームページにはこうも書かれていました。
 「安楽死の定義『苦しい生ないし意味のない生から患者を解放するという目的のもとに意図的に達成された死、ないしその目的を達成するために意図的に行われる「死なせる行為』」
 彼女を哀れみ、毎日がもはや意味のないものだと断じて、病気との闘いから解放してあげたいと思うことは、結局安楽死を望んでいるのであって、彼女を彼女の生き方を尊重することにはならないのか、良く判りませんでした。
 その日の彼女は熱があり、左の脇の下に氷枕を抱えていました。左目を薄く開け、右目は閉じたままでした。右目の端にやはり涙が溜まっていました。啖がまた溜まり始めたらしく、咽喉がゴロゴロと音を立てていました。
 僕はその日もまた、「ママ、また明日ね。」と声をかけて病室を出ました。

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from My Dear Keiko/痛み。(抜粋)

 痛みは定量化することが出来ないものなのだそうです。確かに感じ方に個人差もあるでしょうし、肉体的な痛みもあれば、こころの痛みというのもある。何よりどちらも本人にしか正確には解らないものですから当然なのかも知れませんが。急変の可能性あ高まったと告げられてから、1ヶ月余り。敬子の容態は安定していました。
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 ふと思いました。彼女は今どんな痛みを感じているのだろうか、と。ほとんど身体を動かすこともなく、眠ったようなのですが、啖が溜まり、それを看護婦さんに引いてもらう時は、苦しそうに身体を震わせ、閉じていた目を大きく見開きます。その瞬間はとても辛く、痛いのだろうと思います。傍で見ていて、毎回辛い気持ちになりました。しかし、その痛みや辛さがどれほどのものかを彼女と同じように感じることは出来ない。身体を動かすことのない彼女があれだけ身体を震わせるのだからきっと痛くて辛いのだろうと推測することしか出来ない。そんなもどかしさが募りました。
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 彼女は確実に痛みを感じている。しかしそれを言葉に出来ない。面会に行く度、彼女の髪を梳かし、顔や身体を拭いてあげると、いつも閉じた目の端に涙が溜まっていました。それは彼女の痛みの現われなのだと思うようになりました。何ヶ月か前、まだ彼女が目を開けるのを待っていた頃、僕は、彼女には「もっともっと生きたい。だから頑張ってるのよ。」と訴えているんだという想いと「とても辛い。すごく苦しい。」と病気と闘う苦しさを訴えているんだという想いが交錯していると思っていました。しかしそれからもすでに4ヶ月余り。彼女はどんな風に思っているのだろうかと考えることが多くなりました。病気との闘いを言葉に出来ず、病室のベッドで独りで過ごす日々。きっと寂しさも日ごと強くなっている。もしかすると、今は痛みや辛さや寂しさが勝っているのではないだろうかと。
 彼女を痛みや辛さや寂しさから早く解放してあげたい、と思うようになっていました。

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from My Dear Keiko/春一番。(抜粋)

 いつものように夕食を終え、お風呂から上がり、娘たちの髪を乾かしてあげている時にテレビを点けたらニュースが東京に春一番が吹いたと告げていました。明日はまた寒さが戻るということでしたが、これでいよいよ、いつもより寒さが堪えた冬が終わろうとしていました。その日は、秋田から大学時代のバンド仲間、大塚香織さんがお見舞いに来てくれました。先日も来てくれた澤村さんと一緒に。彼女に会うのは本当に久し振りのようでした。 
 敬子は、全体として容態は安定しているようでしたが、少し気になることもありました。それはその2、3日、顔がむくんで来ているように見えたこと、そして目を閉じていることがとても多くなっていたことでした。
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 「ママ、敬子。香織ちゃんが来てくれたよ。メイちゃんも一緒だよ。」「ぶる。香織です。会いに来たわ。」「メイです。また来たよ。」代わる代わる声をかけました。ほんのわずか目を開けましたが、ほとんど閉じたままでした。額に触って見ると、熱は前日よりは下がっているようでしたが、頭の膨れと併せて、顔全体がむくんでいて、特に目の周りが腫れぼったい感じがしました。貌つきがだいぶ変わって見えました。
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 腫瘍から再び出血し、急変の可能性が高まったと告げられてからの彼女の頑張りは本当に素晴らしいものでした。緊急手術をしなければならなかった前回よりも出血は大きかったのに、それを乗り越えて毎日を精一杯生きていました。しかし、傍にいて彼女の中にある「生きる力」の強さも徐々に弱まって来たかも知れないと感じました。考えて見れば、当然です。再手術も、放射線治療も、抗がん剤治療も行なわないと決め、彼女は「生きる力」だけで色々な困難と闘っていたのですから。延命治療に終始することは、もはや彼女のためにはならない。彼女は彼女らしく頑張って生きた。その彼女らしさを全うするのは、彼女の「生きる力」で全うすることなのだと思いたいのでした。
 再び意識障害が強まり、彼女はその目を閉じてしまうかも知れない。覚悟はしても、そんな彼女を見守るのはやはり辛く、悲しい。でももう、それは残酷なことではなく、彼女を、彼女の生き方を尊敬する選択をしたのだ、と思いたいのでした。

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from My Dear KEIKO/「また明日ね。」(抜粋)

 敬子は精一杯毎日を生きていました。急変の可能性が高まったと告げられてから2週間以上が過ぎていました。
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 2週間はあっという間に過ぎました。急変の可能性が高まったと告げられてからの僕は、毎日がとても息苦しくて、辛く、ただ容態の急変を案じるばかりで、電話の音にも怯え、再び何も手につかないという有様でした。しかし彼女は、限られた貴重な日々を、「生きる力」を振り絞って病と闘っていました。そんな彼女を見ていて、急変だけを案じる自分はいかにも狭量でちっぽけな感じがして来ました。
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 彼女の髪を梳かして、顔を拭きました。少しだけ目を開け、またすぐ閉じてしまいました。手足の硬縮は相変わらずでしたが、返す力が心なしか弱くなっているようにも思えました。
 「ママ、気分はどう?今日はね、晴れてすごくあったかい。ちょっと風があるけど暑いぐらいだよ。啖が溜まってる見たいだね。苦しい?」「沙羅も葉奈も、元気にやってるよ。ちょっと風邪気味だったけど大丈夫見たいだ。」「葉奈は発表会がもうすぐだから、頑張ってるよ。内緒にしいてるはずだったらしいけど、お風呂で色々訊いたら、白状しちゃったよ。やぎさんの役らしい。2人とも休んでいないよ。心配しないでいいからね。きっと2人ともまた皆勤賞だ。」耳元で色々話しかけると、また少しだけ目を開けました。
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 「ママ、また明日ね。」
 彼女が答えてくれないのは、やはり少し寂しい感じがしました。
 でも「また明日ね。」そう言えるのが、何よりも素晴らしいことにも思えました。
 

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