「マイ・ディア・敬子」に興味を持っていただいて、ありがとうございます。
ご意見・ご感想そしてアドバイスをいただければ幸いです。
ご意見・ご感想・アドバイス/本のご注文は、
有限会社シーバーズ・ワークショップまでお願いいたします。
gimlet@c-bars.co.jp
●本の代金の振り込み/ベティ基金へのご協力は、お手数ですが下記口座までお願いいたします。
城南信用金庫 経堂支店 普通預金 口座番号353195
口座名 ベティ基金 柴田 英雄
●郵便振替もご利用いただけます。
豪徳寺駅前郵便局 00150-1-114176番
ベティ基金
妻、敬子の死は、僕自身に大きな変化をもたらしました。
何かこの僕に出来ることはないかと考えるようになりました。
そして今も、この本の売り上げや、みなさんのご協力やアドバイスを基に、
「ベティ基金(Betty Fund)」が設立出来ないものかと考えています。
そこでは
●彼女と同じ脳腫瘍をはじめ、重い病と闘うみなさんが、情報交換出来る場・機会を創り出し、
お互いに励まし合えれば。
●脳腫瘍という、今もなお未知の部分が多い領域の研究を支援出来れば。
●彼女と同じような年齢の女性はもちろん、多くのみなさんが、もっと健康に配慮出来る
きっかけ作りが出来れば。
●高度医療を受けるために必要な治療費を一時的に支援出来れば。
というようなことを考えています。
お別れ会の最後に親族を代表して、僕が送る言葉を述べることになっていました。しかしそうは言われたものの、何を言えばいいのか最後までまとまらず、その場でも胸が詰まって涙が出て来て、結局うまく言えませんでしたが、その時言おうと思っていたことはこんなことでした。
「・・・・早過ぎる死でした。人の死はどんな場合も、残された者に悲しみ、辛さをもたらします。敬子の場合もあまりに突然で、しかもこれからやりたいことがたくさんあって、お互いに計画を練っていた矢先でしたから。
重い脳腫瘍と診断された敬子は198日間一生懸命頑張ってくれました。沈黙の闘いでしたが、何度もくじけそうになった僕を窘め、勇気づけてくれました。そしてその人生を賭けて色々な宝を僕に残してくれました。そのひとつはたくさんの想い出です。僕は敬子が19歳の時に出会いました。ガールフレンドが、恋人になり、妻となり、そして母となる。それぞれの時を共に過ごせたことは幸せで、とても大切な宝になりました。二つ目は多くの友人たち。みなさんも得難く、そして何物にも代え難い宝です。闘病中、何度もお見舞いに来てくれて、励まし勇気づけてくれました。大好きな歌が病室に響いたこともありました。そんなみなさんのご助力が敬子に届きました。そして僕もどんなに辛くても決して負けない、あきらめない、自分からは降りない、そんな敬子を好きになったのだと思いました。三つ目の宝。それは僕に残してくれた愛する家族です。沙羅と葉奈。この2人がいなければ僕はただうろたえるばかりで、希望を失ってしまったかも知れません。2人の娘をとても愛していた敬子でしたから、これから敬子の分も愛して行きたいと思います。
1日目は夜遅くまで親戚や仲間たちがいてくれて、お風呂に入れなかったので、次の日の朝、式場に出かける前に沙羅と葉奈と一緒にお風呂に入ることにしました。お風呂には水に濡れても大丈夫という面白い本が数冊置いてあって、その一冊に花言葉が書かれているのを沙羅が憶えていて、向日葵とスイトピーの花言葉を探してくれました。そう言えば、そんなことは全然考えていませんでした。とにかく敬子は向日葵が好きだったとか、単純にカーネーションよりはスイトピーがいいとか思いつきで選んだので、その花言葉など調べる余裕はありませんでした。「どんな風に書いてある?」と沙羅に訊ねました。「えーとねぇ。向日葵はね、これ何て読むのかな。なんとかマンと不変。スイトピーはね、何とかガクと何とかベツ。」「それじゃ解んないよ。どれどれ見せてよ。」沙羅から本を渡されて、見てみました。色々な花言葉がありました。昔、彼女にバラを贈ることもあったので、バラにしようかとも思ったのですが、バラには色ごとにずいぶん花言葉が違うことも判りました。贈る時はいつも赤いバラでしたが、その花言葉は情熱、純愛、でもそれが黄色なら嫉妬、不実に変わるのでした。最初献花にしようと思ったカーネーションは、赤は慈悲、白は純愛、黄色は軽蔑、縞は拒絶。花言葉のことを考えると実は花選びはかなり難しいのだと思いました。そんなことは全然考えもせずに選んだ向日葵とスイトピーはどんな花言葉を持つ花なのか。探しました。なるほど5年生になったばかりの沙羅には確かに読み方は難しい。向日葵は、傲慢、不変、スイトピーは歓楽、離別。傲慢というのは彼女には当たらないけれど僕には当て嵌まるかも知れない。でも不変というのはとてもいい。スイトピーはまさに献花には相応しい花言葉を持つ花だったのだと初めて知りました。
離別と不変。彼女のお別れ会に、そんな言葉を持つ花を選んだ。別れることは確かに悲しい。でも彼女を想い出せば、彼女と別れることはない。きっとどこかで僕たちのことを見守ってくれるはずだから。そんな想いを変わらず持つこと。それが彼女のために出来ること、これまで僕たちにしてくれたこと、残してくれたことに感謝することなのだと。「愛されることは長続きはしないけれど、愛することはいつまでも続く、その想いがある限り。」いつか読んだ本の中の一節が浮かんで来ました。
「よし、このことも送る言葉を言う時に、絶対に話そう。」
でも実際には、胸が詰まって涙が出て来て、しどろもどろになってしまい果たせませんでした。
お別れ会には本当に大勢のみなさんが集まってくれました。敬子の幼馴染み、高校、大学時代からの仲間たち、会社勤めの頃の上司や同僚、保育園の、幼稚園の、小学校の、色々なサークルの友人そして子どもたち、ご近所のみなさん、沙羅や葉奈のことを憶えていてくれて商店街の八百文さんまで。そして彼女を良く知る僕の古くからの仲間たち、友人たち、バンド仲間、会社勤めをしていた頃の上司、同僚たち、草野球チームの仲間たち、仕事仲間、クライアントのみなさん、家族ともども可愛がってくれたお店のご主人たちもご夫婦で。家族でお世話になった彼女の大学の大先輩も。多くの電報も届きました。多くの花も届きました。予想をはるかに上回り、集まっていただいたみなさんは両日で600人近くに上りました。数日後、遠くにいて来れなかったというメールも届きました。ブラジルから、ドイツから。盛大に、晴れやかに送ってあげたいと思っていた僕の望みはこんなにも多くのみなさんによって実現出来ました。彼女もきっと驚いたでしょう。そしてとても喜んでくれたでしょう。
集まってくれた中には、大学を卒業して以来会っていない友人もいました。彼女が再び引き会わせてくれたのだと思いました。集まってくれたみんな彼女に起こってしまったことに驚き、残念だ、気を落とすなと励ましてくれましたが、「ぶるちゃんって、向日葵が好きだったんだ。知らなかった。でも確かに似合ってるよ。」「大好きな歌が流れてて、きっとぶるも嬉しいと思うよ。」「こんな送り方もあるんだなって思ったよ。感心した。」と、彼女らしいお別れ会になったと言ってくれました。
彼女がまだ闘病中、ご近所の神武(コウタケ)さんのお宅にみなさんが集まってパーティーをしたことがありました。うろたえてすっかり気弱になっていた僕を元気づけるために招いてくれたのでした。その時神武さんがこんなことを言っているのを思い出しました。「敬子さんはさ、いつもいろんな人たちの真ん中にいるのよ。そんな気がする。お互いなかなか話せないでいた人も彼女がいることで打ち解けて友だちになっちゃう。そんな感じなのよね。」確かにそうかも知れないと思いました。
お別れ会はまさにそんな彼女を表していました。共通の友人が多かったのですが、初めてお目にかかる方もとても多く、彼女が本当に多くのみなさんと交流していたことに驚き、感じ入りました。
彼女はまさに「人と人を繋ぐ人」だったのだと。そんな彼女のおかげで、僕も色々な方と巡り会えたのだと。
その後間もなく、敬子は病院の地下1階にある安置室に運ばれました。その間病室の後片付け、退院の手続きなども矢継ぎ早に済ませました。彼女を送るために早速葬儀にことを考えなければならず、病院から紹介された葬儀社の方と打ち合わせをして取りあえず日取りを決めました。いよいよ病院を出る時刻。中村先生をはじめ、色々彼女の世話をしてくれた看護婦さんたちも数人お別れに集まってくれました。改めて「ありがとうございました。」とお礼を言って病院を後にしました。外に出ると午後の強い陽射しが眩しく、汗ばむほどの陽気でした。
それから20分ほど。午後2時を少し回った頃、199日振りに彼女は家に戻りました。無言の帰宅になってしまったことはとても残念でしたが、家族の元へ。帰りたがっていた僕たちの家に。
床を取り、慎重にドライアイスを配して、彼女は横になりました。「お帰り、敬子。ママ。」そう声をかけて彼女の顔を見ました。本当に安らかな顔をしているので驚きました。「いい顔になったわね。本当に家に帰りたかったのね。」とお母さんが言いました。僕は特別信心深い訳でもなく、そんなことをすぐ信じる訳でもない極めて現実的なタイプだと思っていました。でもその時は心からそう思いました。確かに微笑んでいるように見えるのです。改めて、彼女はこの198日間、何も語ることはなかったけれど必死に病と闘っていたのだと。そして今その闘いから解放されて家に戻り、心から安心しているのだと。確かに身体は冷たくなりました。でも身体中にあった緊張は解け、不思議なことに床ずれの鬱血や首や顎にかけての発疹も薄れてほとんどんなくなっていました。その晩家を訪れてくれたご近所のみなさんや、大学時代のバンド仲間も、「きれいないい顔してる。」と言ってくれました。ギターを引っ張り出して、みんなで彼女が好きだった曲を思いつくままに演奏しました。病室にいる時味わっただろう寂しさを紛らわすために。元気だった頃はごく当たり前だった、賑やかで楽しい気分を想い出してもらうために。
夜も更けて。みなさんも帰り、沙羅も葉奈も眠って、2人だけになりました。「お帰り、敬子。ママ。」もう一度そう声をかけました。しばらく顔を見ていました。「ただいま、ダダ。」と言っているようでした。いつもベッドで見ていた寝顔のように安らかでした。キスしました。
そしてまたギターを手に取り、彼女とデュエットした曲を歌いました。
その時のことを想い出しながら。心を込めて。彼女だけのために。
すぐに両国の両親と僕の実家に、そして学校に出かけている沙羅と葉奈を引き取ってもらうためにご近所の佐々木さんに、弟廣次の仕事場に、敬子の、僕の友人たちに。思いつくままに電話をかけ、彼女が最期を迎えたことを知らせました。中村先生が来てくれて、「奥様はとても残念なことでした。正式な時刻は午前11時35分でした。早速ですが、頭の膨れている部分を元のように戻してあげたいと思います。それからお顔などもきれいにしてあげたいのですが、よろしいですか。」と言ってくれました。「ありがとうございます。よろしくお願いします。」
先生方が最後の身支度をしてくれている間、外を見ながらみんなが来るのを待ちました。空は晴れ、陽射しが眩しいほどの良い天気でした。ただ、風が強いらしく、雲がとても速く動いて行きました。これまでの彼女の闘いの日々が浮かんで来ました。長かったのだろうか、短かったのだろうか。良く解りませんでした。ただその最期がまりに突然で呆気なかったことに戸惑っていました。何も言えなかったけれど、彼女が息を引き取ったその刻、「敬子。ママ。ありがとう。」と声をかけました。やはりそれが一番に言いたかったことなのでした。ご近所の藤波さん、佐々木さんたちに連れられて沙羅、葉奈が着きました。「ママね、一生懸命頑張ってくれたんだけどな。天国に行ってしまった。沙羅、葉奈、ダダは何もしてやれなかった。ごめんな。でもママは本当に頑張ったぞ。だからありがとうって言ってあげような。」葉奈は涙ぐみ、沙羅は泣きたいのを我慢しているようでしたが、「うん。」と言ってくれました。ほどなく彼女のお父さん、お母さん、僕の弟廣次も集まりました。病室に入りました。膨瘤から髄液や血腫を抜き取る処置を行なったために、彼女の頭には包帯が巻かれていました。もしその刻が来たら着せてあげようとお母さんが用意してくれていたピンク色のきれいな浴衣に着替えてあり、顔もきれいにお化粧が施してありました。身体に繋がれていた色々な管も全てはずされ、とても穏やかな顔をしているように見えました。そして病室はとても静かでした。
みんなで順番に彼女に話しかけました。「敬子!・・・・・・・。」「敬子、頑張ったね。やっとお家に帰れるね。良かったね。」「ママ、ありがとう。」「ママ、ありがとう。」「・・・・・・・・。」
「色々手を尽くしていただいて本当にありがとうございました。」傍にいてくれた先生や看護婦さんにお礼を言いました。
中村先生も涙を流しました。家に戻ってお母さんから聞かされて、それを知りました。
その日とても早く目覚めました。沙羅と葉奈を送り出し、早めに家を出ました。病室に着くとすぐ「おはよう、敬子、ママ。気分はどう。」と声をかけました。脈拍90。血圧61-36。血圧が低くなっているのが気にかかりましたが、その頃毎日していた通り、大好きなキャロル・キングのCDをかけ、顔や手足を拭いてから、髪の毛を梳かそうとした時のことでした。手術をした部位とは関係のない左後頭部にひどい鬱血があるのに気づきました。こんな所に床ずれが?と不思議に思い、ちょうど朝のお世話に来てくれていた看護婦さんにそのことを伝えました。看護婦さんも気づいていなかったようで、「頻繁に頭の位置は変えていましたから、床ずれではないと思います。もしかすると化膿しているかも知れません。すぐ先生と相談して処置してもらうようにしますので、少し外でお待ちいただけますか。」と言って先生と連絡を取り、処置の準備を始めてくれました。その間、病室を出て、待ち合いスペースにいた時でした。何人かの看護婦さんや先生がバタバタと忙しく走り始めていました。「どうしたんだろう。」と思っていたら、「柴田さん!病室に戻ってください!」と看護婦さんの呼ぶ声がして、すぐ病室に戻りました。
驚きました。ほんの15分ぐらいしか経っていないのに、確かに低いのは気になってはいましたが、血圧を示す計測器のデジタル数字がどんどん下がり、上下とも「0(ゼロ)」になろうとしていました。脈拍も急激に下がり始め「13」。血圧はほどなくともに「0(ゼロ)」になってしまいました。本当に突然に彼女の心臓が停止したのでした。駆けつけてくれた中村先生も様子を見守っていましたが、「このまま、人工呼吸器をつけたままにして置きますと、肋骨が折れてしまうかも知れません。はずしてもよろしいですか。」と言いました。涙と嗚咽が止まらず、胸が詰まり、すぐには声が出て来ませんでした。「お願いします。」そう言うのが精一杯でした。人工呼吸器がはずされました。中村先生が彼女の右の手首に手を当て、脈を確認しました。そして「誠に残念ですが、ご臨終です。」と言いました。ほんの短い間の出来事だったのかも知れませんが、長く本当に長く感じられました。
ついにその刻が来てしまいました。彼女の「生きる力」の終わりはあまりに突然に、あまりに呆気なく。いつかその刻はやって来る。僕に出来ることは最後までしっかり見守ることなのだ。そう覚悟はしていたはずなのに、すぐには信じられず、悲しくて涙が止まりませんでした。
彼女の手を握り、額にキスしました。まだ温もりが残っていました。
余命宣告の最初の関門、半年を10日ほど過ぎていました。元気だった頃の敬子とは全く違っていました。でも、彼女は自らの意志で日々を生き抜いている。そのことを尊重しなければ。それに必死に頑張るのには、理由があると思っていました。葉奈の入学式でした。ここまで弱り切って、痩せ衰えても、そのことを見極めたいのだろうと。病に倒れ、少し持ち直したその時も、葉奈の幼稚園最後の運動会を気にかけて、行きたがっていましたから。意識はとうとう戻らず、呼吸さえも止まってしまい彼女とは話すことは出来ませんが、「葉奈の入学式もうすぐね。」そう言っていると思いました。
2001年4月6日。穏やかな朝でした。バーバが見立ててくれた黄色いワンピースを着て、ジージ、バーバから贈られた真新しいランドセルを背負って、元気に家を出ました。1年1組さん。教室に入る葉奈は少し緊張していたようですが、晴れやかで嬉しそうでした。上級生に手を引かれて体育館に入って来た時、僕を見つけてニッコリと笑ってくれました。彼女にも見せたかった素晴らしい笑顔でした。式は1時間ほどで終わり、葉奈の記念すべき小学校第1日目は終わりました。「葉奈、1年生だね。ちょっとおねえちゃんになったね。」「うん。葉奈ね、頑張るから。ママも頑張ってるから。」「そうだな。ママもそう思っているよ。入学式に来れなくて残念だったけどな。」
家に戻り、着替えて食事を済ませると、早速病院へ行き、入学式のことを彼女に伝えました。「ママ、入学式に行って来たよ。葉奈、嬉しそうだった。バーバが選んでくれた黄色いワンピースがすごく似合ってた。やっぱり明るい色が葉奈らしいな。1年1組さんだよ。」前日35℃まで下がった体温は一転して上がり始めていました。身体中が火照っているようでした。
葉奈の小学校入学。新しい生活の始まりです。その頃ずっと考えていたことがありました。仕事もほとんど手につかない状態だったこともあって、或るスポンサーの仕事がなくなることが決まり、大きな損失になりそうでした。でも、そんなことを気にかけている余裕も意味もないように思えました。彼女は命を賭して、何かを訴えている。そんな彼女を見守らなければ、これまで2人で築き上げて来たことの意味は崩れる。損失はいつか埋められるが。
「ダダ、もう一度初めからよ。今度はダダが自分で切り拓くのよ。私はもう手伝ってあげられないから。頑張って。私の分も。」
敬子はどんどん痩せて来ていました。抵抗力が落ち、首から顎にかけて帯状に、そして額と頬にも赤く発疹が出来始めました。結膜浮腫が起き、涙腺の周辺の肉が剥き出しになってしまい、乾燥を防ぐために両目がガーゼで覆われました。これまでなかった床ずれも出来始め、左の踵や右のふくらはぎにひどい鬱血が見つかりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
日々変動はあるものの血圧は安定し、脈拍も呼吸が止まった時点よりはかなり少なくなって落ち着いて来ていました。しかしもうこれは「生きている」のではなくて、「生かされている」に過ぎないのではないか。そんな風にしか考えられなくなっていました。お母さんも「もう敬子は十分に頑張ってくれたわ。とにかく早く楽にしたあげたい。人工呼吸器をはずしてやれないのかしら。」と言いました。気持ちが痛いほど解りました。最後まで見届けると決めた僕も揺れていました。
そんな或る朝。いつもより早めに病院に着いた僕は、偶然中村先生に会いました。容態を気にかけて毎朝晩看に来てくれているようでした。思い切って訊ねました。「正直言って日々妻の様子が変わって行くのを見るのが辛くなって来ました。お母さんも楽にしてあげたいと言っています。僕も迷ってはいるのですが、人工呼吸器をはずしてあげることは出来るのでしょうか?」「どうしてもとおっしゃる場合はご家族みなさんの同意が得られれば、はずすことは出来ます。事実私が医者に成り立ての頃はそういうこともありましたが、今は少ないと思います。それと確かにこんな状態になってしまったことはとても残念ですが、そこから頑張って来られたことで、色々な方とお会いすることも出来ました。奥さんはご自分の意志でこの途を選びここまで持ち堪えているのだと、私は思います。それにもしご主人が迷っておられるのなら、人工呼吸器をはずすのは止めた方がいいと思います。」
自らの意志。人工呼吸器に頼らなければもう明日はない。しかし彼女は今日も生き抜いた。何故そんなに頑張るのか。何が彼女をそうさせるのか。苦しく辛いのではないか。楽になりたいと思っているのではないか。そんな想いが頭を占めていましたから、中村先生の言葉にハッとさせられました。
彼女の「生きる力」に任せて最後まで見届けると決めた。それは彼女の意志を尊重することでもある。どんなに変わり果て、それを見るのがどんなに辛くても、それが彼女の選んだ途なのだと。
いつものように寒さの堪えた冬だったのに、桜の開花はいつもより早かったらしく、東京では例年より1週間ほど早く満開の時期を迎えていました。その頃は毎日お母さんかお父さん或いは2人が病室に来て敬子の傍にいてくれました。特にお母さんの悲しみは想像をはるかに超えるものであったと思います。自分のお腹を痛めた娘が、自分より先に旅立ってしまう、しかもそれが明白な事実となってしまう刻が確実に近づいている。傍でその現実を見守ることの身を切られるような辛さ、無念はおそらく僕やお父さん以上であったろうと。それらに耐えて彼女の髪を梳かしたり、手足を拭いたり、愛する娘の世話をしてくれていました。
「お母さん、敬子のあごの所に小さな傷がありますよね。前に聞いたことがあるような気がしますが、大変だったんですか。」「そうね。あの時はびっくりしたわね。お風呂で転んじゃってね。すごく血が出ちゃって。お医者さんが出来るだけ傷ののこらないようにって慎重に縫ってくれたわ。」「敬子はね。初めての孫だったの。だからすごく色々な人に可愛がられて育ったのよ。学校の先生にもね。高校に受かった時も、頑張れって贈り物をくれたりね。」「こんなことになってしまって済みません、お母さん。」「英雄さん、そんなことはもういいのよ。敬子は幸せだったわよ。それに英雄さんにこんなに傍にいてもらえて。ちょっと急ぎ過ぎたのね。ねぇ敬子。早く家に帰りたいわよね。沙羅や葉奈が待ってるからね。桜の花が散る前に帰りたいね。もうそんなに頑張らなくてもいいのよ。楽になっていいんだからね。」ほかにも色々なことを話しました。彼女の小さい頃はお母さんはものすごく忙しくていつも彼女を負ぶって仕事や家事をしていたこと、高校はとても遠くて毎日送り出すのが大変だったこと、でも楽しそうだったこと・・・・。そしてこうも言いました。「毎日敬子を見ていると辛くなるの。早く楽にしてあげたいって思うの。人工呼吸器をはずしてあげられないのかしら。」
呼吸が止まってからは、栄養も摂ることが出来ず、急に痩せて来ているように思えました。もともと小柄で華奢な身体付きだったけれど、さすってあげると肩のあたりが急に骨張ってしまって本当に細っているのが判りました。ふっくらと丸みのあった頬もこけて来たように見えました。膨瘤の部分も茶色に変色して来ていました。元気でいた頃とはすっかり変わってしまった彼女を見るのは本当に辛い。お母さんがそう思うのも無理はないと思いました。
桜の花の散る前に。彼女のためにもそれがいいのだろうか。お母さんの言葉が残りました。
呼吸が停止してからは、敬子の身体の動きも目の動きもなくなってしまいました。看護婦さんに啖を引いてもらう時苦しそうにもがいていた、それさえも。しかし血圧、脈拍は彼女の闘いを物語るかのように日々変動していました。時に140を越える脈拍。上が80を下回るのが続くと状況はますます厳しいと言われた血圧。そしてもうひとつ、日々変動していたものがありました。それは体温でした。それまでのように38℃を越える高熱になる日があると思えば、手足や額に触れると驚くほど冷たくて、その度に不安になりました。たまたま朝中村先生に会えて、そのことを訊ねました。「この所、脈拍や血圧もそうですが、体温も日によって変動が激しくて、かなり低くなってしまうこともあるようなのですが。」「前にもお話ししましたが、呼吸が止まってしまった一番の原因は、腫瘍からまた出血があったことで、前回は緊急手術をして回避した脳ヘルニアが起こり、いや今回は完全に出来上がってしまい、脳幹が再度大きなダメージを受けてしまったことだと考えられますが、その影響を受けて体温調節を司る自律神経系の中枢も壊れてしまったからだと思います。尿の量も毎日調べていますが、今の所はしっかり出ていますね。」「尿の量が減るということにはどんな意味があるのですか?」「腎機能が低下し、腎不全を起こし、重篤な状態に陥る可能性も出て来てしまいます。」
脳腫瘍が引き金になって、彼女の身体のあらゆる機能に変化が起こっている。本人の意識は戻らず、身体も動くことはないのに次々と過酷な試練が襲って来る。その残酷を恨みたくなる一方で、脳という器官が元気でいることにこんなにも密接に関わっているのだということを痛感させられました。彼女がここまで「生きる力」を振り絞れるのは、脳以外は極めて健康な状態だからでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結婚して15年、病気らしい病気をしたこともなく、みんなと元気に楽しく過ごして来た彼女が初めて経験した重い病。それがこんなにも深刻なものになってしまうなんて。それが未だに信じられないことがありました。葉奈が自転車の練習をしていた時に、外に出て来て笑いながら、僕たちを見ていた時の優しい顔、忙しい合間を縫って鍵盤に向かっていた時の神妙な顔、・・・・。何もなければ、想い出すこともなかったかも知れないさりげない表情が突然浮かんで来たりしました。
彼女は、静かにただ静かにベッドに横たわっていました。
呼吸が停止してから2週間が過ぎようとしていました。沙羅にクラスメート朋子ちゃんのお父さん、佐々木正寿さんが病室を訪ねてくれました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その後一緒に1階に降り、病棟に挟まれた中庭のようなスペースで話をしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「・・・・・・・敬子は走るのは遅かったけど長く走るとか泳ぐのは得意だったみたい。マラソン向きの筋肉してたのかな。佐々木さんはどうしてマラソン始めたの?」「どうしてですかね。だいぶ前のことですから良く憶えてませんね。ただマラソンしてると邪魔が入らず独りで考えることが出来るし、責任も全部自分にあるし。そんな所が好きなんだと思いますよ。」「そうか。マラソンってみんな観るのは好きだよね。ただ走ってるだけのようなのに画面に釘付けになっちゃう。きっと独りで闘ってる姿に魅入っちゃうんだろうね。普段みんな独りであることって特別に考えたり意識したりしないしね。」「実際の話、苦しいですよ。でも途中で止めちゃうとなんか悔しくて。ただそれだけなんですけどね。自分に負けちゃうのが悔しいから最後まで頑張っちゃうんですね。」
取り止めもない話をして別れ、病室に戻りました。彼女は静かに横たわっていました。脈拍が落ち着いていたものの、呼吸が止まった直後は200に近づくほどで、それはまさに全力疾走をした後の胸の高鳴りほどの状態でした。もう身体の反応はありません。啖を引く時、苦しそうにもがいていたのに、それさえも。人工呼吸器が命の綱。外見はピクリともしないのに、彼女の心臓は時にマラソンランナーのように高鳴り、走り続けている。独りで。傍にいて見守ってはいても、その孤独を癒やしてあげられない。病との闘いはかくも孤独なものなのか。またしても何も出来ないもどかしさ、悔しさが残りました。一緒に走ってあげられれば、一緒について行ってあげられたら。彼女が死に直面しているその時に「人はその最期、また独りに戻らなければならない。」その厳しい現実が沁みました。
でも「途中で止めたら悔しい。」彼女はきっとそう思っている。応援しなければ。最後の最後まで。
たとえどんなに厳しく、辛くても、自分からは降りない。そんな彼女を好きになったのだから。
僕の父は、東京は月島の生まれ。しかし沙羅ぐらいの年頃、12歳の時に両親を相次いで病気で亡くしました。遠縁を頼って妹と2人で福島県郡山市へ。預かって育ててくれた家がお蕎麦屋さんだったこともあり、以来その道に。20歳を過ぎた頃たった1度近くの飲み屋に繰り出して、ほろ酔いの父から小さい頃の夢は先生になることだったと聞いた憶えがあります。肉親を失った寂しさに耐え、やがて結婚し独立して、母と2人苦労して僕たちを育て上げてくれました。そんな生い立ちの父の資質を僕も知らず知らずのうちに受け継いだのかも知れません。独りであることに強いという或いは耐えて来たという資質。敬子もそれに似たものを僕と沙羅の中に見ていました。
彼女の呼吸が停止してから1週間余りが過ぎていました。呼吸が停止したと聞かされて、いよいよその刻が来たのかと覚悟しました。しかしそこから彼女はまたも盛り返しました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
毎日病院に詰めて、彼女の様子を見守りながら、色々な想いが過ぎりました。そしてその頃僕の心をずっと占めていた想いのことを考えました。それは怖れでした。彼女がいなくなってしまう、彼女を失ってしまうことへの。それが今避けられない現実となってしまう刻が容赦なく近づいているのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女と知り合って得たことはたくさんありましたが、一番はどこかいつも孤独であることを感じて生きていた僕を癒やしてくれたことでした。独りに強いことと、独りが好きなこととは全く別なのだということを教えてくれたのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
10年ほど前母が病に倒れ、かろうじて一命は取り止めましたが、右半身麻痺と言語障害が残りました。その時きっと父が感じたであろう苦しさ、辛さ、無念を今度はこの僕が。これも不思議な巡り合わせなのだろうかとも思いました。そして多くを語ることのなかった父のこれまでの生き方が少し解ったような気もしました。
「敬子、ママ。怖いよ。すごく。ママがいなくなったら僕はどうすればいいのか解らないよ。」
人工呼吸器の規則的な音がひときわ大きく響いているようでした。
敬子の呼吸が停止した次の日、親友チイからこんなメールが届いていました。
「・・・・・・・こっこから柴田くんと話した内容を聞きました。・・・・・・・こっこからも伝えてもらったと思うけどぶるの最期の見送り方をどう考えるのか教えてください。ご家族だけでお別れしたい’ということであれば、もちろん遠慮させていただくし、是非見送ってほしいというのであればどんな状況でもすぐに飛んで行きます。・・・・・・・・。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
最期をどう見送ってあげるか。それには色々考え方があると思います。僕は迷わず、時間が許せば会って欲しいと返信しました。意識は戻ることはありませんでしたが、前にも仲間たちが来てくれたり、沙羅や葉奈のことを話すと、なんとなく嬉しそうな顔をしてくれると感じていましたから。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その日の午後。病室にまた高校時代の音楽サークルの仲間たちが集まってくれました。・・・・・・・「ぶる頑張って。好きな歌歌うから聴いてね。」と声をかけて、CDに合わせて「You've Got A Friend(君の友達)」を歌ってくれました。ドアを閉めて。少し控えめではあったけれど。その歌声は病室に静かに深く響きました。僕も彼女とデュエットしたこともあって、一緒に歌いました。
とても心に沁みました。一番気の合った昔からの仲間たちから、お気に入りの歌を贈られた。きっとその歌声は彼女に届いた。素晴らしい贈り物。そして何より、最後の最後まで彼女を励まし気遣ってくれる、有り難く、得難い、仲間という宝。
脈拍145-116。脈拍74-45。体温36.3℃。彼女は依然予断を許さぬ厳しい状態にありました。
しかし、彼女はきっと喜んでいると思いました。
2000年3月27日。敬子が倒れたから半年と少し。沙羅と葉奈は春休みに入って、久し振りに彼女の実家に遊びに行っていました。僕は朝から掃除、洗濯、書類や仕事の整理、といううちにあっという間に時間が過ぎ、軽く朝食兼昼食を食べていました。電話が鳴りました。病院からでした。「ご主人様ですか?さきほど敬子さんの呼吸が停止しました。今からすぐにおいでになれますか?」「は、はい。20分ぐらいで行けると思います。」「そうですか。お待ちしておりますので。」あまりに突然で驚きましたが、そう答え、大急ぎで身支度をし、実家に電話を入れ病院で待ち合わせることにしして家を出ました。
彼女はすでに個室に移され、気管切開をした部分に人工呼吸器が繋がれていました。黒く小さなサンドバッグのような袋が規則的に膨らんでは縮み、彼女の呼吸の代わりをしていました。何種類もの薬剤がぶら下がり、脈拍や血圧を測定する機器なども運び込まれていました。救命救急センターに入った時のことを思い出しました。中村先生から説明を受けました。「今朝、先日お話しました通り、髄液を抜きました。その時点では状態は悪くありませんでした。膨瘤もだいぶ小さくなったと思います。しかし、その後再び膨れ出し、午後1時頃呼吸が停止しました。原因は特定出来ません。今はCT撮影も出来る状態ではありませんが、再び出血し、脳ヘルニアが起こって呼吸停止を引き起こしたのだと思います。瞳孔が開き始め、血圧の50-45まで急激に下がり始めたために、人工呼吸に切り替え、強心剤を投与して心臓の機能低下を抑えているという状況です。残念ですがかなり厳しい状況です。ご両親には連絡されましたか?」「はい。今娘たちと一緒にこちらに向かっています。」
4人が到着すると、すでに来てくれていた荒木さんと橋本さんと入れ替わりに病室に入りました。娘たちは彼女を見て驚いていましたが、涙をこらえて「ママ、頑張って」と声を掛けました。再びお父さんと一緒に説明を受けました。お父さんもあまりに突然で呆然としていました。ここ数日熱がなかなか下がらず、表情も虚ろで、口を開け荒く息をすることもあって心配でしたが、まさかこんな形で容態が急変し、呼吸が止まってしまうなんて。
ベッドに横たわる彼女は、目を薄く開け、呼吸が停止してしまったとは思えないほど、顔色も唇の色も良く見えました。ただ彼女の身体からではなく、傍らの人工呼吸器が音を立てているのがとても不思議な感じがしました。
しかし今やそれしか彼女の命を繋ぐ術はなくなっていました。
敬子が病に倒れてから半年。中村先生から言われていた余命の最初の関門の日。熱がまたかなり上がり出していました。顔中に汗が玉のように噴き出していました。貌つきもいよいよ変わって来ていました。蒼ざめた顔色、朦朧として虚ろな眼差し、半ば開かれたままの口、喘ぐような荒い息遣い。「生きる力」を振り絞っているようでした。その頃はずっと熱が高く、時には38℃を越えてしまう日もあってか、ほとんど目を閉じていて、開けても生気がなくなって来ているような気がしていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
病院から帰ると、電話が鳴りました。彼女に何かが起こったかと思って慌てて受話器を取りました。家族で可愛がってもらっているコーヒー豆の自家焙煎のお店「ビーンズ」のご主人橋倉さんからでした。「柴田さんですか。すみません、遅くなっちゃいましたけど、家内が折っていた千羽鶴が出来上がりまして。いつでもお渡し出来ますから。」「ありがとうございます。お気遣いいただいて。すぐ取りに伺います。」受話器を置いてすぐ、お店に向かいました。そして奥さんから千羽鶴を手渡されました。「すみません。こんなにご心配していただいて。」「そんなこと気にしないでください。こちらもお力になれなくて。」色とりどりの小さな折り鶴が丹念に繋がれて、お二人の心遣いに溢れた素敵な千羽鶴でした。そしてこんな言葉が書き添えてありました。「(サラちゃん、ハナちゃんの)ママへ。1日も早く快復出来ますように祈っております。」
涙が溢れて来ました。彼女が快復することはもうかなり厳しくなってしまったけれど、本当に色々な方が彼女のことを気遣ってくれている。彼女が元気だった頃には気にかけることもなかった人のさりげない優しさや温もりがこんなにも心に沁み入る強さを持っていることを改めて知りました。明くる日。早速病室に千羽鶴を持って行き、薬剤がぶら下がっている器具の所に飾りました。「敬子、ママ。ビーンズの奥さんがずっと折り続けてくれた千羽鶴だよ。すごく心配してくれてる。」彼女は目を大きく見開き、何かを言いたそうでした。「辛い」と言っているのか、「生きたい」と言っているのか。呼吸は少し荒い感じはしましたが、触れると熱は落ち着いて来ているようでした。
しかし、急変はまさに突然訪れたのでした。
「余命は発症の時点から起算します。」2000年10月19日に中村先生からはそう告げられていました。敬子が受けた余命宣告は半年長くても2年。その後すぐ調べた時も、彼女のような悪性度の高い脳腫瘍の患者さんの5年生存率は7%と書かれていました。その半年が近づいていました。外見からは彼女の容態は安定していました。しかし彼女の「生きる力」は少しずつ確実に弱まって来ているように思えるのでした。
面会に行く度、彼女の顔や手足に触れ、色々なことを話しかけていました。手足には脳の障害による四肢の麻痺の症状である硬縮がありました。しかし、それも以前に比べるとそんなに強いものではなくなっていました。彼女の手を取り、そして緩めると手は力なくダラリとするようになっていました。「ママ。敬子。僕だよ。気分はどう?」と話しかけると、薄く目を開けようとするのですが、大きく見開くまでは行かず、すぐ閉じてしまうことも多くなっていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女だったらどうするか?と考え、迷い、そして「5年生きる可能性はある。しかし意識の戻らぬままで生きることは決して彼女が望むことではない」と、再手術も放射線治療も抗がん剤治療も行なわないと肚を決めました。彼女が「生きる力」だけで彼女らしい生き方を全うするのを見守ろうと。しかし、その「生きる力」が徐々に弱くなって行くのを日々見守るのはやはり切なく、辛いことでした。
寒の戻りがあって、毎日寒い日が続いていました。「今日はママ。また冬に逆戻りしちゃったよ。すごく寒いよ。ママも寒い?」と訊ねても、眠ったように静かに横たわっています。これまで何度も襲った厳しい局面を、彼女は何も言わずに乗り越えて来ました。強い精神力と意志そして体力で。しかしそれにも限りがあります。1日でも長く生きて欲しいと思って来ました。しかし傍にいて、それももうとても酷なことのように思えてならないのでした。
「ママ。もうすぐ葉奈も卒園だよ。沙羅も1日も休まないで4年生を終えそうだよ。2人ともそのことをママに伝えたいんだ。ママ、頑張ったよって言いたいんだよ。だから、それまでは頑張ろうな。」
その日の彼女は、やはり熱があり、目を開けてくれたのもごくわずかでした。
でもきっと解ってくれていると思いました。
敬子を痛みや辛さや寂しさから早く解放してあげたい。それはつまり彼女の死を望むことになる。今僕が彼女に対して抱く思いは、そういうことではないか。精一杯毎日を生きる彼女なのに、そんなことを考えるのはあまりに無慈悲なことではないか。自分で考えることが自分でも良く解らなくなっていました。そんな迷いを少しでも晴らすためにまた色々ホームページを検索しました。こんなことを書いてあるホームページがありました。
「『尊厳ある死』(Death with Dignityー本来の意味での尊厳死)とは、人間としての尊厳を保って死にいたること、つまり、単に「生きた物」としてではなく、「人間として」遇されて「人間として」死に至ること、ないしそのようにして達成された死を指す。」
余命宣告を受けた今、彼女が意に反した死に至ることは避けることが出来ない。そんな過酷な現実を前に、意識の戻らないでままでいる彼女に代わって僕が選んだ途は、彼女を「人間として」遇した、彼女らしさを全う出来るものになるだろうか。またそのことが過ぎりました。
彼女は「生きる力」だけで色々な困難と闘っていました。依然として手術をした部分の膨れも、腫瘍も進行していました。貌つきも変わり、元気でいた頃の彼女の面影は日ごと薄れていました。そんな彼女を傍で見守っていて、これが本当に彼女らしい生き方なのかと思いました。自分の痛み、辛さ、寂しさを言葉に出来ないままで日々を生きることが。延命を続ける毎日が。そのホームページにはこうも書かれていました。
「安楽死の定義『苦しい生ないし意味のない生から患者を解放するという目的のもとに意図的に達成された死、ないしその目的を達成するために意図的に行われる「死なせる行為』」
彼女を哀れみ、毎日がもはや意味のないものだと断じて、病気との闘いから解放してあげたいと思うことは、結局安楽死を望んでいるのであって、彼女を彼女の生き方を尊重することにはならないのか、良く判りませんでした。
その日の彼女は熱があり、左の脇の下に氷枕を抱えていました。左目を薄く開け、右目は閉じたままでした。右目の端にやはり涙が溜まっていました。啖がまた溜まり始めたらしく、咽喉がゴロゴロと音を立てていました。
僕はその日もまた、「ママ、また明日ね。」と声をかけて病室を出ました。
痛みは定量化することが出来ないものなのだそうです。確かに感じ方に個人差もあるでしょうし、肉体的な痛みもあれば、こころの痛みというのもある。何よりどちらも本人にしか正確には解らないものですから当然なのかも知れませんが。急変の可能性あ高まったと告げられてから、1ヶ月余り。敬子の容態は安定していました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ふと思いました。彼女は今どんな痛みを感じているのだろうか、と。ほとんど身体を動かすこともなく、眠ったようなのですが、啖が溜まり、それを看護婦さんに引いてもらう時は、苦しそうに身体を震わせ、閉じていた目を大きく見開きます。その瞬間はとても辛く、痛いのだろうと思います。傍で見ていて、毎回辛い気持ちになりました。しかし、その痛みや辛さがどれほどのものかを彼女と同じように感じることは出来ない。身体を動かすことのない彼女があれだけ身体を震わせるのだからきっと痛くて辛いのだろうと推測することしか出来ない。そんなもどかしさが募りました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女は確実に痛みを感じている。しかしそれを言葉に出来ない。面会に行く度、彼女の髪を梳かし、顔や身体を拭いてあげると、いつも閉じた目の端に涙が溜まっていました。それは彼女の痛みの現われなのだと思うようになりました。何ヶ月か前、まだ彼女が目を開けるのを待っていた頃、僕は、彼女には「もっともっと生きたい。だから頑張ってるのよ。」と訴えているんだという想いと「とても辛い。すごく苦しい。」と病気と闘う苦しさを訴えているんだという想いが交錯していると思っていました。しかしそれからもすでに4ヶ月余り。彼女はどんな風に思っているのだろうかと考えることが多くなりました。病気との闘いを言葉に出来ず、病室のベッドで独りで過ごす日々。きっと寂しさも日ごと強くなっている。もしかすると、今は痛みや辛さや寂しさが勝っているのではないだろうかと。
彼女を痛みや辛さや寂しさから早く解放してあげたい、と思うようになっていました。
いつものように夕食を終え、お風呂から上がり、娘たちの髪を乾かしてあげている時にテレビを点けたらニュースが東京に春一番が吹いたと告げていました。明日はまた寒さが戻るということでしたが、これでいよいよ、いつもより寒さが堪えた冬が終わろうとしていました。その日は、秋田から大学時代のバンド仲間、大塚香織さんがお見舞いに来てくれました。先日も来てくれた澤村さんと一緒に。彼女に会うのは本当に久し振りのようでした。
敬子は、全体として容態は安定しているようでしたが、少し気になることもありました。それはその2、3日、顔がむくんで来ているように見えたこと、そして目を閉じていることがとても多くなっていたことでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ママ、敬子。香織ちゃんが来てくれたよ。メイちゃんも一緒だよ。」「ぶる。香織です。会いに来たわ。」「メイです。また来たよ。」代わる代わる声をかけました。ほんのわずか目を開けましたが、ほとんど閉じたままでした。額に触って見ると、熱は前日よりは下がっているようでしたが、頭の膨れと併せて、顔全体がむくんでいて、特に目の周りが腫れぼったい感じがしました。貌つきがだいぶ変わって見えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
腫瘍から再び出血し、急変の可能性が高まったと告げられてからの彼女の頑張りは本当に素晴らしいものでした。緊急手術をしなければならなかった前回よりも出血は大きかったのに、それを乗り越えて毎日を精一杯生きていました。しかし、傍にいて彼女の中にある「生きる力」の強さも徐々に弱まって来たかも知れないと感じました。考えて見れば、当然です。再手術も、放射線治療も、抗がん剤治療も行なわないと決め、彼女は「生きる力」だけで色々な困難と闘っていたのですから。延命治療に終始することは、もはや彼女のためにはならない。彼女は彼女らしく頑張って生きた。その彼女らしさを全うするのは、彼女の「生きる力」で全うすることなのだと思いたいのでした。
再び意識障害が強まり、彼女はその目を閉じてしまうかも知れない。覚悟はしても、そんな彼女を見守るのはやはり辛く、悲しい。でももう、それは残酷なことではなく、彼女を、彼女の生き方を尊敬する選択をしたのだ、と思いたいのでした。
敬子は精一杯毎日を生きていました。急変の可能性が高まったと告げられてから2週間以上が過ぎていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
2週間はあっという間に過ぎました。急変の可能性が高まったと告げられてからの僕は、毎日がとても息苦しくて、辛く、ただ容態の急変を案じるばかりで、電話の音にも怯え、再び何も手につかないという有様でした。しかし彼女は、限られた貴重な日々を、「生きる力」を振り絞って病と闘っていました。そんな彼女を見ていて、急変だけを案じる自分はいかにも狭量でちっぽけな感じがして来ました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女の髪を梳かして、顔を拭きました。少しだけ目を開け、またすぐ閉じてしまいました。手足の硬縮は相変わらずでしたが、返す力が心なしか弱くなっているようにも思えました。
「ママ、気分はどう?今日はね、晴れてすごくあったかい。ちょっと風があるけど暑いぐらいだよ。啖が溜まってる見たいだね。苦しい?」「沙羅も葉奈も、元気にやってるよ。ちょっと風邪気味だったけど大丈夫見たいだ。」「葉奈は発表会がもうすぐだから、頑張ってるよ。内緒にしいてるはずだったらしいけど、お風呂で色々訊いたら、白状しちゃったよ。やぎさんの役らしい。2人とも休んでいないよ。心配しないでいいからね。きっと2人ともまた皆勤賞だ。」耳元で色々話しかけると、また少しだけ目を開けました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ママ、また明日ね。」
彼女が答えてくれないのは、やはり少し寂しい感じがしました。
でも「また明日ね。」そう言えるのが、何よりも素晴らしいことにも思えました。
或る夜、娘たちと食事を終えて、テレビを点けたら、歌が流れていました。コンサートライブの映像で小田和正さんがピアノを弾きながら歌っていました。生命保険会社のCMで、さりげない1コマを映したモノクロ写真と併せて「あなたに会えて本当に良かった。」という歌詞が心に残りました。
彼が昔「オフコース」という人気グループにいた頃、学生だった敬子も大好きでコンサートにも出かけたり、自分たちのバンドでも何曲か演っていましちゃ。恋人たちの出会いや別れ、前向きに生きて行くことは大変だけれど大事なことなどを、率直な歌詞ときれいなハーモニーで聴かせてくれました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたに会えて本当に良かった。」簡単な言葉かも知れませんが、心からそう思って言葉にするのは難しいと思います。この僕も、彼女が余命宣告を受けるほどの重い病に倒れ、貴重な時間を精一杯生き抜いている今になって初めて、彼女に会えたことを心から良かったと思えるのです。確かに、病と、次々に降りかかってくる困難と闘う彼女を見ているのはとても辛いことではありましたが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長い眠りから目を醒まして僕たちを見て、名前を呼ぶ。そんな奇跡を信じたい、起こって欲しいと思っていました。しかし、こうして毎日を精一杯生きる、そのこと自体がすでに奇跡なのではないかとも思えるのでした。
僕は?彼女が強い女性であることを改めて感じました。しかし、そんな彼女に応えることが出来ているだろうか?いつまた容態が急変するかも知れない。そのことが不安で、怯えてしまっていて、電話の音にさえ過敏になって、ただ呆然と、漫然と日々を過ごしているだけではないのか?
しかしこれだけは、彼女に言いたいと心から思いました。
「敬子。ママ。あなたに会えて本当に良かった。」
容態の急変の可能性が高まったと告げられてから10日ほどが経っていました。敬子の容態は安定しているように見えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「急変の可能性が高まったと言われたのでとても不安なのですが、今後はどんな治療になって行くのでしょうか?頭もだいぶ膨らんで来ていますし。」「腫瘍から出血がありましたし、水頭症も確実に進んでいますから、急変の可能性は高いと思います。・・・・・・・・・・・・・ただ水頭症の影響で脳室がかなり大きくなっていますから、脳圧が上がり、再び脳ヘルニアに繋がる可能性も否定出来ません。・・・・・・・・・・仮に水頭症の手術を行なっても、前にお話した通り、容態の回復に繋がることは極めて難しいと思います。手術は延命効果を期待するためのものになります。ただ水頭症はあくまで合併症で、その症状が進んでいるのです。病状の主因は脳腫瘍です。少しずつですが大きくなっていますし、それが今後また出血する可能性もやはり否定出来ません。今度出血すれば非常に厳しい状況になると言わざるを得ません。」「何故こんなに短期間に出血があったのでしょうか?」前に先生に訊いたことを思い出しました。「奥さんの場合に特徴的だと言えるのは、腫瘍も含め、非常に血管が多いということです。前回もそのために出血がかなりひどく、腫瘍を切り取ることが難しかったのです。」
延命効果。色々なホームページを検索して、その言葉を何度も目にして、ある程度覚悟していたつもりでした。しかし、中村先生からはその時初めて聞いたように思います。
せめて1度でいいから、どんなに短くてもいいから長い眠りから目を醒まして、僕たちのことを見て、そして僕たちの名を呼んで欲しい。まだ彼女の闘いは報われていない。
そんな奇跡が起こることを信じたい、起こって欲しいのでした。
でも、僕には気になることもありました。それは子どもたちに募る、ママがいない寂しさでした。
沙羅は幼稚園からずっと近所にあるアトリエに通っています。写生したり、自由に絵を描いたり、粘土で色々なものをこしらえたり、週1回の習い事は、創作意欲旺盛な沙羅にはとても楽しい時間です。そんな沙羅が色々な形に厚紙を切って貼りつけて作って来た絵を見てびっくりしました。先生のコメントの最後にこう書かれていました。「・・・色がないのがちょっとさみしいかな?」確かにそれまでのとは違っていました。色がないのです。いつもきれいな色遣いの絵や粘土細工が多かったのに、その絵は白と灰色なのです。太陽や星や、蝶々がいるのに。
元気一杯、天真爛漫が持ち味も葉奈も、食事時や、ちょっとした瞬間に少し遠くを見るような表情をすることが増えていました。お腹が空いたと言うのだけれど、あまり食べなくなっていました。「どうしたの?葉奈。大丈夫?」と声をかけると「大丈夫。」と言うのだけれど。
敬子の入院がとても長くなって、しかも何度か容態が変わり、いつまた急変するかも判らない。そんな状況になってしまって、「ママは今一生懸命頑張ってるよ。だからみんなで頑張ろうな。」と言っては見るものの、僕自身が気落ちしてしまったことを娘たちは敏感に感じ取ったのかも知れません。些細なことで叱ったりすることも増えて傷つけてしまったかも知れない。2000年のクリスマスイヴの日が最後で、彼女にも会っていませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
毎日病院に行き、彼女を見る度、色々なことが浮かんで来て、寂しさが募ることが多くなっていました。元気を出さなくちゃいけないと思うのですが、独りになった夜はなおさらでした。
でもそれは、まだまだ小さい沙羅や葉奈の方がずっと大きいのでした。
腫瘍から再び出血し、今後容態の急変の可能性が高まったと告げられてから、頭の膨れは確実に進んでいる感じでしたが、敬子の容態は安定していました。友人たちが言っていたように、外見からは変化は目立つことはなく、少し熱っぽい感じでしたが顔色も良く、呼吸も穏やかでした。
しかし、僕はとても不安で落ち着かなくなっていました。彼女が倒れてからしばらくの間そうであったように、もし電話が鳴ったらと考えて電話の音がとても怖くなりました。電話が鳴る度、ドキッとして胸が高鳴り、どの電話もみな病院からのものであるように思えました。深夜、周りが静まり返っていると、電話が鳴っているように思えてしまうことさえありました。電話を取って違うことが判ると、本当にホッとしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女に何度も話しかけ、覚悟を決めたと思いました。しっかり見守ろう、もし容態が急変しても気持ちを強く持って頑張ろう、そう決めたと。しかし、もうなす術はないのか。手術をすること以外に。やはり手術すべきだったのか。たとえ改善する望みは薄いとしても。悩み、迷い、心が揺れました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
祝日のその日は、気持ち良く晴れて暖かく、春の訪れを思わせました。熱いお湯に浸してきつく絞ったタオルで彼女の顔や手足を拭きました。特に左手を丹念に。「どうママ?気持ちいい?ちょっと汚れているみたいだからきれいにしようね。」と話しかけながら、硬縮の進んだその手を拭くために開こうとすると、とても強い力で閉じようとして来ました。
僕の迷いを窘めるように。
頭の膨れは日々進んでいて、それはまるで大きな瘤のようになっていました。そこに力が加わらないように、頭を大きく左に向けて、ほぼ真横を向いていました。顔を拭いてあげようと思って傍にいきました。敬子の右の目に涙が溜まっていました。苦しいのかな?と思いました。でも少し感じが違っていました。開いていた両目を少し離れて見てみると、とても優しい眼差しをしているのでした。その目は動かず、一点を見つめているのですが、これまでの虚ろな感じではなくて、子どものような柔らかい光がありました。何故だろう?楽になりたいと訴えているのだろうか。それとも何か別のことが言いたいのだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
どんな途を選んでも、きっと迷う。最善の途が何かは誰も言えない。ただ最終的な決断は、彼女の意識が戻らない今、僕がしなければならない。決めても、すぐ揺れる。これまでそれを何度も何度も繰り返して来たのでした。
「敬子。ママ。僕の選んだ途は間違っていたかな?どうかな?ごめんね。また迷ってしまったよ。もしかしてママにとても済まないことをしてしまったんじゃないかって思ってしまうんだ。」髪を梳かしながら、彼女に訊ねました。
「一度、これが正しいと決めたら、誰が何と言おうと、それをやり通す。それがダダのやり方だったんじゃなかったの?そうして来たじゃない。私はこれまでそんなダダにずっとついて来たのよ。迷わないで。ダダが迷ったら私まで迷っちゃうわ。」
彼女は優しい眼差しで僕を見つめて、そう言っているようでした。
「今後奥さんの容態が急変した場合にはすぐご連絡して来ていただくことになりますが、万が一、ご主人が仕事で出かけていたり、ご家族の方が集まるのが難しい場合などに、人工呼吸器によって延命するかどうかを考えておく必要があります。すぐ決めるというのは難しいと思いますが、奥さんのお父様、お母様とご相談しておいていただけますか。以前お母様とお話した時には、そっとしてあげたいとおっしゃっておられましたが。」
病室に戻り、敬子を見ました。少し熱っぽく、両目をかっと見開いていました。「ママ。敬子。」と耳元で呼びかけました。目をまたたいて、僕の声が届いたように思えました。涙が出て来ました。しっかり見守ろうと決めて、もう彼女の前で涙を流すのは止めにしようと思いましたが、駄目でした。
帰りしな、彼女の実家に電話しました。お母さんが出ました。中村先生から言われたことを伝えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「英雄さん、そんなに気を落とさないで。これがね敬子の運命、寿命なのよ。もしその時がやって来ても、もうこれ以上敬子が苦しむことをして欲しくないわ。英雄さんも一生懸命頑張ったわ。敬子のことも勿論だけど沙羅や葉奈のことをしっかり護ってあげて。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
家に戻りました。夕食を終えて一緒にお風呂に入りながら、娘たちには「ママの具合が少し悪くなった見たいなんだ。でもママは一生懸命頑張ってるよ。」と伝えました。そうとしか言えませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
お母さんと話したこともう一度考えました。やはり僕もその時が来ても、もうこれ以上延命を続けるのは止めたいと思いました。彼女を、彼女の生き方を尊重する。ただ延命治療に終始することは、それではない。少し前そう思いました。しかし今、そのことがより切実で避けることの出来ない問題になりました。楽にしてあげたいと思うことは残酷で、愛のない、思い遣りのないことではないのか。ずっとそんな迷いがありました。
しかし、そんな迷いも、晴れて行くような気がしました。
朝から雨模様で、夕方からは冷たい雨になり、今にも雪になりそうな様子でした。久し振りに仕事に出かけた僕は、帰宅後沙羅が取り次いでくれた電話を受けました。午後2時を過ぎた頃。病院からでした。敬子の担当の看護婦さんがこう言いました。「奥さんの容態が変わりました。詳しくは中村先生からお話を差し上げます。今先生は手術中でして、午後6時から7時の間にお越しいただけますか?」「解りました。お伺いします。」電話を切った後、急に不安になりました。ここ2、3日、とても具合が悪そうに思えたこともあったし、頭の膨れがとても気にかかっていましたから。
午後6時過ぎ。手術を終えたばかりらしく、手術着のままの中村先生から説明を受けました、「奥さんの容態に変化が起こり、急遽断層写真を撮りました。再度腫瘍から出血があったようです。断層写真を見ると、前回の出血よりも大きいようです。手術した部分に骨が入っていなかったおかげで、脳圧の急激な上昇が緩和されたようですが、骨を埋める手術を行なっていれば、もしかすると命が危なかったかも知れません。水頭症の症状もかなり進んでいることに加えて、今回の出血もあり、今後は容態が急変する可能性がかなり高いと言わざるを得ません。この期間内でまた出血があるというのは極めて稀なケースです。少なくとも私が担当した中では初めてです。」
余命は半年、どんなに手を尽くしても2年と告げられました。色々悩んだ末、彼女の「生きる力」を信じて見守ろうと決めました。しかし、またしても酷なことでした。
「今後、どうやって髄液を抜いて行くのでしょうか?」僕は訊ねました。「今は内水頭症に変わっていますから、針を刺すと、直接脳ということになってしまいます。髄液を抜くならば水頭症の手術をすることになります。それであればもっと以前に手術を行なっていました。しかしご主人ともご相談した上で、手術は行なわないということでここまで来ましたし、これまで何度か髄液を抜いても奥さんの症状に大きな変化は見られませんでした。また仮にこれから腫瘍を取り除く手術を行なっても改善は期待出来ません。以前お話しましたように、それらの手術を行なわなかったことが、何も手を尽くさなかったということではないと思います。とても残念なことですが、この悪性度の腫瘍が出来てしまったことが、今の状況を招いているのです。」
言葉が詰まりました。先生は、こう続けました。
その日は良く晴れ、寒さも幾分緩んで、暦通り春の訪れを思わせました。敬子は熱も下がっていて、楽そうでした。久し振りに彼女の手足の爪を切り、髪を梳かしました。彼女は目を閉じ、呼吸も穏やかでした。また、膨らんだ部分にそっと触れて見ました。しかしそれまでの柔らかさはなく、先日中村先生に言われた通り、脳そのものが頭皮を隔ててすぐそこにあるのだという感じがしました。
その時ふと疑問が湧きました。髄液が脳表に溜まる外水頭症であれば、皮下に針を刺して、定期的に抜き取ることで何とか膨れるのを抑えることが出来ていた。しかし、脳室に溜まる内水頭症に変わって来た今、日々溜まって行く、しかもより奥深くに入り込むようになった髄液をどうやって抜き取るのだろうかと。針を刺すといっても、ほぼ脳の中心にある脳室まで達するのは、相当に深い。そのこと自体が新たな問題に繋がることはないだろうか。また色々なことが巡りました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
夏の名残りがまだ十分に感じられた9月の終わりに彼女は倒れました。秋が過ぎ、いつもより寒さが厳しく感じられった冬もやがて終わり、もうそこまで春が近づいている。その間、彼女はずっと沈黙の闘いを続けて来ました。降りかかる困難を乗り越えて精一杯生きて来ました。でも次々と壁が立ちはだかる。彼女の沈黙の闘いは未だ報われていないのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
春が来てそして過ぎ行く、その時まで彼女は闘い続けることが出来るだろうか?初めてそんな思いが過ぎりました。半年長くても2年という余命宣告を受け、その半年まで2ヶ月を切っていました。しかし彼女の「生きる力」がそれを1日でも延ばしてくれると思っていました。でもそれだけを願うことが果たして彼女にためにいいことなのだろうか。それが僕が望むことなのだろうか。再びその問いが浮かんで来ました。
「十分頑張ったよ、敬子。だからもう楽になって。」本当はそう言ってあげたいのでした。
硬縮が進んで手足がこわばっているのを少しでも和らげるために、色々な治療と並行してリハビリテーションが続けられていました。面会の度に敬子の手や足をさすって、教えてもらったように時々伸ばしてあげたりしていましたが、左脚は特に緊張が高く、右脚に比べるとだいぶ太く、足首から先が内側に大きく曲がったままになっていました。左膝は曲げるのもかなり難しく伸びたまま緊張した状態になっていました。その日はたまたまリハビリのスタッフの方に会って話をしました。
「最近、奥さんの容態に何か変化はありますか?」「大きな変化はありませんが、先生の話によると、水頭症が進んでいるようです。昨日はかなり熱があって顔中汗が吹き出ていました。」「そうですか。汗が出て来るのは奥さんが自力でなんとか体温調節しようとしている訳ですからむしろいいことではないかと思います。一時は私たちが見えているような感じもしましたが、今は少し停滞気味なのかも知れません。筋肉や関節もだいぶ硬くなっていますが、股関節はまだそんなに硬くならずに、動かすことも出来ますからオムツの交換などは大丈夫です。今はとにかく現状維持が目標です。あまり無理に動かしますと、筋肉の中に骨のような組織が出来る現象が起きてしまって、それが新たな痛みの原因になってしまうこともありますので。」
リハビリの最中、彼女は痛みに顔をゆがめていました。後でタオルで手足を拭いてあげた時、足の裏をくすぐって見たら、指がピクリと動きました。意識は依然戻っていませんでしたが、痛いとかくすぐったいという反射的な感覚はちゃんとあるのです。脳という器官の不思議さを感じました。
同時に、硬縮という症状は脳の障害による四肢の麻痺であると中村先生から説明を受けていましたが、今も徐々に進んでいるということは、やはり脳の障害が依然として意識の回復を阻んでいるのだとも思いました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
現状を維持する。リハビリのスタッフの方の言葉が浮かびました。今はそのことさえも非常に厳しい状況にあるのかと。
1月の終わり。倒れてから4ヶ月が過ぎた頃、敬子の容態に微妙に変化が起きていました。それまでの何週間かは全体としては安定しているように見えました。髪を梳かしてあげた時、髄液が溜まって膨らんでいた部分にまたそっと触れて見ました。すると、それまでは明らかに水が溜まっている感じで柔らかかったのが、しこりのように少し硬く感じられたのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「この1ヶ月の間に、腫瘍はまた少し大きくなって来ています。進行の速さは特別に速いということはありません。このレベルの悪性度の腫瘍としては一般的だと思います。水頭症に関しては、ご主人の質問のように、変化が起きています。これまでは髄液が脳表に溜まる外水頭症でしたが、直近の断層写真を見ると、髄液が脳室に溜まる内水頭症に変わって来ています。そのために、脳表の方の髄液は減って来ていてえ、脳室に溜まった髄液の影響で脳室が大きくなり、脳が骨の入っていない部分に膨らんで来ています。心肺機能や肝臓、腎臓の機能も安定していますし、今の所、重大な合併症の兆候も見られませんが、腫瘍と水頭症に関しては確実に進行しています。それがこの1ヶ月間の変化です。今後はもしかすると目を開いている時間が徐々に少なくなって行くかも知れません。」
断層写真はまさにその状態を映していました。予想していたことが現実になってしまいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
少し前に彼女がこの病気に選ばれたのは、耐える力があるかだということを聞いて、自分を落ち着かせ、重苦しい気分を換えようとしましたが、またしてもこの現実は辛く、酷なことでした。しかし、この僕にはやはり何もしてやれないのです。彼女が、残された時間を精一杯生き抜くことを傍に居て見守ってあげることしか。
病室に戻りました。その日の彼女は、とても熱があって、汗が顔中に吹き出ていました。
敬子には7歳下の妹がいます。恭子ちゃん、愛称コッコ。2001年1月25日。コッコに2番目の子どもが生まれました。男の子。数日後、匠(タクミ)くんと名付けられました。初めての子どもは女の子、綾音(アヤネ)ちゃん。
「心配しないでよ。ちゃんとお世話してあげるから。」かなり気合いが入っていました。「どっちかな?」「きっとウチ見たいに女の子よ。」「どうして?」「オンナの勘ってやつよ。」「自分のことみたいに張り切ってるじゃない。」「そぉ?でも本当に楽しみなの。」「そうだな。沙羅も葉奈も可愛がるだろうな。ところでママ、どんな風に呼ばせるの?」「そうねぇ。ダダはダダでいいけど、両方におばあちゃんもいるしねぇ。どうしようか。」「ヤンババって恭子ちゃんが言っていたじゃない。」「ほんと、ヤンババって感じよね。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
新しいいのちの誕生を自分のことのように楽しみにしていた彼女を襲った突然の病。お世話するんだと意気込んでいたその願いは叶えるのがとても厳しくなりました。もしかすると、匠くんの誕生を知ることさえも難しい。
「ママ、恭子ちゃんに子どもが生まれたってさ。ジージが昨日電話くれたよ。男の子だってさ。勘がはずれたじゃない。でも良かったね。楽しみにしてたもんな。」明くる日彼女にそう伝えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
前日は熱がだいぶ上がっていたらしく氷枕をいくつも抱えていましたが、それも落ち着いていました。
きっと新しいいのちの誕生を喜んでいるんだ、会いたいだろうなと思いました。
面会に行くと、敬子が目を閉じて静かに穏やかに眠っていることが、数日間続いていました。胸のあたりが上下に少しだけ動いて、浅いけれど呼吸もしっかりしていました。いつもなら「今日は、ママ。気分はどう?」と声をかけて、額に手をあてて熱の具合を見たり、身体をさすったり、手を握ったり、耳元でその日の出来事を話したり、彼女の好きな音楽をかけたりするのですが、本当に穏やかに眠っているので、ただ傍にいて、彼女のことを見ていることにしました。いつも通りノートに彼女の状態をメモしてから彼女の様子を描いたりもしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
手術後こんなに静かに穏やかに眠っている彼女を見るのは初めてでした。啖が引き切れずに苦しそうにもがいたり、硬縮が進んでこわばった両手を小刻みに動かしたり、両目を大きく見開いて一点を食い入るように見つめていたり、何かしら病気と闘っていることを知らせる動きがありました。しかしその時は熱もそんなに高くはない感じでそれらも目立たず、幼稚園も小学校も休みで久し振りに寝坊が出来る朝に気持ち良さげに眠っている彼女のようでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
命が危ぶまれるということで緊急に手術を行ない、その後も色々なことが彼女に起こって、傍にいるだけでその苦しさや辛さがひしひしと伝わって来る時期がありました。しかしそこから「生きる力」を精一杯振り絞って盛り返し、ここまで容態が安定して来た。改めて彼女の強さを見る思いがしました。
出来ることなら、楽しいことをいっぱい想い出しながら、穏やかに眠る時間がもっともっと増えればいい、そう思いました。
ふと思いました。敬子が楽になれないのは、僕たちが、いや僕のことが心配だからなのではと。彼女が倒れてからは、ずっと彼女のことばかりが気にかかって、無我夢中で毎日を過ごして来ました。しかし4ヶ月になろうとする頃、僕自身についても気になることがありました。護ってやらなければと頭では解っているはずが、些細なことが元で沙羅や葉奈を叱ってしまうことが増えていました。身体の調子も今ひとつで、何よりやらなければならないことはどんどん山積みになって行くことを感じながら、なかなか手がつかない状態でいることも増えていました。頭は冴えているはずなのに肝腎の身体が追いついて行かない、そんな感じでした。ストレスだったでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
これだけ色々なみなさんに支えられている。だのに、「今日何をしたか、明日何をするか。」を考えるほど、元気を出そうと思うほど、結局出来ず終いに1日が過ぎて自己嫌悪に陥ってしまうのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
独りになると時々、このまま駄目になってしまうのか。そんな漠然とした不安にも襲われました。彼女がいなければ何も出来ない。それだけのちっぽけな人間だったのか。
面会に行き、彼女を見ました。熱はありましたが、とても穏やかに眠っていました。
「ごめんね、ママ。どうしても元気が出ないよ。沙羅や葉奈のこともつまらないことで叱ってしまう。どうしたらいい?このまま駄目になってしまうのかな。」答えはありません。でもこう言っている気がしました。
「どうしたの?ダダらしくないわね。自信を持って生きる。信念を貫く。いつもそう言っていたじゃないの。忘れちゃったの?早く思い出して。その時のことを。」
新世紀に入って10日ほどして、敬子は個室から四人部屋に移りました。集中治療室にいた頃には、中村先生から「一般病棟に移っても、個室管理になると思います。」と言われていましたから驚きました。彼女の容態が安定しているからなのか、それとも別な理由があるのか、少し気にかかりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
ただ僕にとって良かったのではないかと思えることもありました。それは彼女と同じような病と闘っている方がおられるということを知るいい機会になったからでした。まじまじと様子を窺ったわけではありませんが、聞こえてくる色々なやりとりからその様子が少し解りました。年齢も様々でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
同時にとても羨ましいとも思いました。患者さんにとって病気と闘うのは、確かにとても辛く、苦しい。でも同室のみなさんはそれを自分で伝えることが出来る。声に出来なくても、眼や身体の動きで。色々なやりとりを耳にしながら、彼女を見ました。薄く両目を開けていました。しかし、彼女の意識はまだ戻って来ていませんでした。本当の気持ちを直接聞けない。それを想像しながら、話しかけることしか出来ないのでした。
ゆっくり辛抱強く、彼女が長い眠りから醒めるのを待とう、信じよう。そうしよう、と決めました。しかし、手術後すでに3ヶ月を過ぎ、彼女に残された時間は日一日限られて行く。そのことがまた頭に浮かんで来て、切なくなりました。
病室の中の、色々な声や音が、驚くほど鮮明に聞こえて来るのでした。
新世紀元旦。たくさんの年賀状が届きました。一枚一枚読みながら、どうすべきか迷いました。まだ敬子が元気だった頃は、毎年家族の近況とその1年の目標を決めて、沙羅と葉奈がコンピュータで絵を描いて、僕が文章を書いて、彼女がそれらをまとめて小さな写真を添えて。すべて手作りの年賀状の出来上がり。年末年始家族でワイワイガヤガヤ。賑やかな年賀状作りでした。でも今回はそれが出来ない。年賀状を送るという気分にもなれませんでた。
たくさんの年賀状の中の一枚に、ここ数年一緒に仕事をさせてもらっていて、個人的には草野球チームのエースとして頑張ってくれたリクルートの大原君からのものがありました。寡黙で多くを語らずのタイプの彼がこう書いていました。「柴田さんへ。“勇気・元気”を大切に。今後ともよろしくお願い致します。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
言うのはとても簡単だけれど、実際にそうするのはとても難しいことは色々あります。「勇気と元気」もそう。自分では勇気も元気もあると思っていました。でも本当は思うほどではなかった。ちょっとしたことにすぐに落ち込む、弱くて脆い人間であることが良く解りました。
これからの目標を大原君が書いてくれた「勇気と元気」にすることに決めました。気持ちがひどく落ち込んだり、また、もし彼女の容態に変化が起きて、気持ちが大きく揺さぶられることがあった時にはその言葉を思い出して頑張ろうと。勇気を出して彼女を見守ろうと。娘たちをそして僕たちの家をしっかり護ろうと。
すっかり遅れてしまったけれど、年賀状をいただいたみなさんに、お礼を兼ねて、正直に彼女に起こったことを、自分たちのことをお伝えしよう、と決めました。
敬子の傍にいて、何度も「敬子、愛しているよ。」と言うようになりました。前よりずっと素直に。結婚してから15年以上が過ぎて、彼女といること、沙羅や葉奈といることがごく当たり前で、ふとした瞬間にとても大切だと思うことはあっても、改めて深く考えることはありませんでした。「愛している。」昔は少し照れ臭くて言えないということもあったけれど、一体どういうことなのだろうか。偶然こんなことを歌った歌を耳にしました。
「愛は煙のようなもの
消えてしまうまで、はっきりとは判らない
愛のことを本当に知ることは出来ないわ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
愛はお金のようなもの
それがなければ生きては行けないけれど
手元に来ては、また行ってしまう
愛のことを本当に知ることは出来ないわ
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
愛はあてにならないもの
胸をときめかせるのに、 すぐ苦しい気分にさせる
愛のことを本当に知ることは出来ないわ」
彼女を幸せにしよう、彼女や娘たちに苦労をさせないようにしよう。そう思ってただがむしゃらに突っ走って来ました。それが愛することだと思っていました。でもそれは本当に愛することだったのだろうか。愛するということを、特別に話すことはありませんでした。でも皮肉なことに、彼女が余命宣告を受けるほどの重い病に倒れ、意識も依然戻らず話すことも出来ない状況になって、今までで一番彼女のことを考え、想っている。
愛するということは本当にこの歌のように辛く儚く、本当に知ることは出来ないものなのだろうか。
僕には良く解らなくなっていました。
大晦日。敬子の爪を切りました。それまで許可もなく爪を切ったりしていいものか迷っていましたが、結局病院の確認を取らずに切ることにしました。爪を切ろうと、硬縮が進んでこわばった彼女の左手の親指を伸ばそうとした時のことでした。そう見えただけなのかも知れませんが、彼女が痛みに顔をゆがめたのでした。驚きました。と同時に彼女はちゃんと僕のことが判っていると思いました。確かに気管切開をしたために声にすることは出来ないし、その目で僕を追うこともない。しかしずっとその奥で何かを確実に訴えているのだと。
手足の爪を注意深く切って、丹念にヤスリをかけました。爪は乾き切っていて、切るとパチンと音を立てました。元気な頃の彼女の爪はどんなだったかを思い出そうとしたのですが、出来ませんでした。そう言えば、彼女の爪を切ったのは沙羅がまだお腹にいた時以来、久し振りのことでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その日の彼女はまた熱が上がっているせいなのか、とても静かで、目を閉じていることが多かったので、話しかけるのを止めにして、傍でしばらく彼女を見ていました。彼女が元気だった頃のことが色々浮かんで来ました。するとすぐ、今の彼女のことも浮かんで来ました。
彼女が倒れてから3ヶ月を過ぎ、「もういい加減、現実を受け容れなければ毎日のことが覚束ない。お前がしっかりしなくちゃダメじゃないか。」そう問いかける自分がいつもいました。でも頭では解っているつもりなのですが、依然として「これは悪い夢であって現実ではないのだ。」と思うことが何度となくありました。色々な方が助けてくれて、日々の生活は徐々に落ち着いて来ていましたが、夜、娘たちが眠った後独りになると、急にポカンとしてしまって、涙が溢れて来てしまうのでした。
何か新しいことをまた2人で始めたいね、と楽しみにしていた新しい世紀が、数時間後に迫っていました。
2000年クリスマス。敬子が倒れてから3ヶ月。いつもならクリスマスには、数日前からツリーを出してみんなで飾り付けをして、イヴには、「沙羅も葉奈もサンタさんを信じてる。羨ましいわ。」と言いながら、お願いしていたサンタさんからのプレゼントを、娘たちを起こさないようにそっと枕元に置いて、僕たちもお互いのプレゼントを交換しながら、お酒を酌み交わす。当日は家族みんなでケーキを焼いて、チキンの丸焼きやサラダをこしらえて、クリスマスソングを歌ってワイワイガヤガヤ。時にはお友だちの家族も集まって。そんな平凡だけれどとても楽しい。家族で過ごす大切な日でした。
イヴの日。ここ数年ずっと聴きに行っていた「ロバの音楽座」のクリスマスコンサートに、沙羅のお友だちの朋子ちゃんを連れて立川まで行って来ました。民族楽器やお手製の楽器で、温かくて優しい音を奏でる素晴らしいコンサートです。一度聴いてすっかりファンになりました。今年も彼女は楽しみにしていましたから、とても残念でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
クリスマスの少し前、中村先生から最近の状態のことを聞きました。「ここ数日、一時下がっていた炎症反応の数値が上がって来ています。また最近のMRIの断層写真を見ますと、若干ですが、腫瘍が大きくなって来ているようです。髄液は頻繁に抜き取るようにしていますが、どうしても溜まってしまいます。明らかに水頭症の症状ですが、この状態ですと、手術を行なっても改善は見込めないのではないかと思います。」一般的な症例としては手術後1ヶ月から3ヶ月時点での状態がそのまま続くことが多いという先生の言葉も思い出しました。
結婚してから、彼女が過ごす初めての独りぼっちのクリスマスになってしまいました。病室はどうしても殺風景になり勝ちなので、少しでも寂しさが紛れればと思って、友だちがお見舞いに持って来てくれたクリスマスの歌を流しました。そしてコンサートに出かける前に用意しておいた小さな置物も持って行きました。
それはクリスマスツリーをみんなで飾り付ける時、彼女がとても気に入っていると言っていた、陶器で出来たユーモラスなサンタクロースでした。
水頭症の症状が徐々に進行していました。手術をした頭部の皮下に水(髄液)が溜まり、膨らんでいました。定期的に針を刺して抜き取るようにしていましたが、どんどん溜まり、常に膨らんでいるような状態でした。以前自分で色々調べた時に、髄液は成人の場合1日に約450ml産出されると書いてありましたが、まさにその通りでした。「髄液を抜いても、奥さんの症状に大きな変化は見られないようです。ですから仮に水頭症の手術を行なったとしても、容態の回復は非常に難しいと思います。」 中村先生にはそう言われていました。しかし、頭の膨れあがった敬子を見るととても辛くなりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
色々な厳しい状況を乗り越えて、彼女の容態は安定して来ていました。両目を開けるところまで来ていましたが、それが意識の回復とは言えず、依然さまざまな障害がたちはだかっていました。
毎日面会に行く度に、その日の彼女の様子を書き留めていましたが、熱が上がったり、下がったり全体としては微熱が続いていること、啖が溜まってとても苦しそうに身体を動かすことがあること、そして水が溜まって膨らんでしまう頭部以外は、日々大きな変化はなく、大半はとても静かで穏やかな印象で、呼吸も浅いけれどしっかりしていて、家のベッドで僕の隣りで寝息を立てて眠っている時と同じようでした。両目を開けるようになってから一定のリズムも出て来て、目を開けている時と眠って居る時とが交互にキチンとやって来るようでした。
彼女の脳に対するダメージはかなり大きい。意識の回復を障害する要因も多い。しかし、そんな状態にあってもある種の規則性を持って機能している。とても不思議な感じがしました。
と同時に彼女の「生きる力」の強さを改めて感じました。
たとえ妻でも、日記を読むのは良くないと思いました。でもどうしても敬子が僕との暮らしをどう考えていたのかが知りたくて、数年前、「日記をつけようと思うんだ。」と言う彼女の言葉を思い出して、探して見ました。「1994年ー2004年」の10年日記が、キッチンに、色々な本と一緒になっていました。僕に関することがずいぶん書かれていました。
敬子がいない毎日は、生活のリズムもままならず、やること全てが行き当たりばったりの点の状態のままで、1本の線にならず、気持ちの上でもとても不安定だったように思います。と同時にもう一つ、医療費という重い現実もありました。少しでも可能性があれば、彼女のために出来ることは何でもやりたいと思いました。しかし、彼女の治療に要する医療費の負担はとても大きいものでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
開頭手術は勿論、「低体温法」の治療のように、どこの病院でも受けられるという訳ではない特別な治療法、彼女の容態を安定させるために使われた数々の薬剤、そして主治医中村先生を始めとして、常に彼女を見守ってくれる多くの医療スタッフの方たちの努力。それらを考えれば当たり前なのかも知れませんが。
彼女が倒れてしまったことは辛く、悲しいことでした。しかも、出来る限りの手を尽くして手術や治療に当たってもらったものの、その現実は厳しいものとなりました。しかし、彼女が自らの意志でそれを受け容れ、手術を行なったこと、そして数々の高度な治療を受けることが出来たことは彼女にとっても僕たちにとっても良かったのかも知れないと思うようになりました。確かに負担は大きい。しかし、もしかすると手術や治療さえ受ける時間もなく命を落とされてしまう方も多いかも知れない。或いは、負担が大きいがゆえに高度医療を受け続けることが非常に厳しいという状況にある方も、もしかするといるかも知れない。色々なことが浮かんで来ました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女は依然として何も語りません。しかし身を持って、僕たちに色々なことを教えてくれているのだと思いました。
ただ、僕にはそれに応えることが出来ているかは、自信がありませんでした。
敬子の脳に再びメスを入れることはしない。肉体的な痛みや副作用を伴う放射線治療や抗がん剤治療も行なわない。僕はそう決めました。水頭症の影響で手術した部分の皮下に水(髄液)が頻繁に溜まり膨れるようになっていましたが、それは針を刺して抜き取るようにしていました。中村先生によれば、ここの所は状態も安定していて、抗生剤の投与も止めているとのことでした。これまで定期的に彼女の血を採り血液培養によって検査を行なっていました。場合によっては重篤な状態に陥り、死に至ることもあるという敗血症や菌血症を起こさないように注意するためでした。「今の所、その点での異常は認められません。肝機能や腎機能についても、正常値よりは高めのものもありますが、危険な状態ではありません。血液を調べた限りでは奥さんの状態は安定しています。一応検査結果のデータをお渡ししておきます。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
データが全てではないと思います。事実、目の前にいる彼女は、両目を開けるようになったものの、意識が戻ったとは言い難く、硬縮などの麻痺の症状も徐々に進んでいて、相変わらず微熱もありました。安定しているとはいえ、なかなか厳しい状況でした。しかし、彼女は徐々に盛り返して来ているとさえ思えるのでした。
彼女の中にある「生きる力。」きっとそれが原動力になっているのだと思いました。
彼女は出来る限りの力を振り絞って日々闘っている。もうこれ以上何を望むことが出来るだろう。
明くる日、僕は彼女にまた、「ゆっくりね、敬子。ママ。」と声をかけました。
僕は初めて、「ゆっくりね、敬子。ママ。」と声をかけることが出来ました。彼女の肩に触れて、また涙が出て来ました。でも今までで一番優しい気持ちで接することが出来たように思えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
決してあきらめない、望みを捨てないという気持ちは勿論ありました。しかし、それ以上に、この状態がずっと続く、それが変え難い現実なら、彼女の痛みや苦しみを和らげてあげたい、そんな気持ちが強くなっていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ゆっくりね、敬子。ママ。」と声をかけることが出来てから、彼女を見る目がとても穏やかで優しくなって来たようにも思えました。少しずつ覚悟が出来て来たのかもしれません。いつまた彼女の容態が急変するかもしれない。でも彼女は十分に頑張っている。闘っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女が倒れてからの2ヶ月はあっという間でした。こんなに鮮烈な日々はそれまで体験したことがありません。なんという皮肉だろうか。彼女が倒れ、意識を失い、言葉や反応を失った今になって、一番彼女のこと考えるなんて。
彼女と一緒に過ごした日々のことが毎日心に浮かんで来ました。彼女と一緒に行った色々な場所の風景が浮かんで来ました。その時どんなことを話しただろうか?どんなことを思っただろうか?次々に頭を巡りました。僕は思い出せる限りのことを書き留めるようになりました。
そしてその度に、彼女はとても素晴らしい女性だ、この僕にはもったいないぐらい、と思うのでした。
敬子が両目を開けるようになってから、僕は位置を少しずつ変えながら彼女に話しかけて見ました。でも彼女の目は僕を追いかけては来ません。「意識はたぶんあるのだと思います。しかし、それがさまざまな要因で障害されているのです。」中村先生はそう言います。でも本当に意識があるかどうかを確かめる術はありません。好きな音楽を聴かせてあげれば回復を助けるかもしれないという看護婦さんの奨めもあって、病室にCDプレーヤーを持って行って、彼女の好きな「Will You Love Me Tomorrow?」や「You've Got A friend」を聴かせたりしました。彼女は、時折瞼を閉じたりすることがあって本当に聴こえているのかもしれないと思いました。ただ気管切開をしたので、それを声にすることが出来ないだけだと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
意識の戻らない日々が続いて、僕の気持ちにも変化が起きていました。毎日面会に行く度に、「頑張って、敬子!」「しっかり、ママ!」と声をかけていました。でも彼女は十分に頑張っている。考える以上に過酷な闘いを続けている。そんな彼女にもっと頑張れと言うのは、彼女はそれこそ辛いのではないかと思うようになりました。ずっと考え続けていた、「敬子だったらどうするか?」という想いが過ぎりました。きっと彼女は、「ゆっくりね、ダダ。身体を休めて。ちゃんと待ってるからね。」と言ってくれるだろうと。そしてその言葉通り、辛抱強く待っていてくれるだろうと。
目を大きく見開いていた彼女が一瞬瞼を閉じました。僕の想いを解ってくれたかもしれないと思いました。
僕はとても愛おしくなって彼女の額にキスしました。
敬子の41回目の誕生日でした。彼女と知り合ってから一番切ない誕生日になってしまいました。ここ7、8年は家族や親しい人たちの誕生日には必ず自分たちでケーキを焼いて、お祝いするようになっていましたが、彼女がいないと分量も手順も解らず、今回は果たせませんでした。彼女だったらきっと、僕が入院していたとしても、みんなを元気づけるためにケーキを焼いただろうと思ったのですが。
前の日、久し振りにお母さんと病院に行きました。帰りしな、お母さんが「残念だけれど、これが敬子の寿命なのよ。」とポツリと言いました。そう言うことで、きっと彼女と同じように無念さや、運命の残酷さを無理矢理納得してしまいたいようでした。お母さんの気持ちが少し解りました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
本当に僕たちはこれからだったのです。沙羅や葉奈も前ほど手がかからなくなって来た。2人で始めた会社も色々あったけれどどうにかやって来れて会社らしくなって来た。結婚して16年目。これまた色々あったけれどやっと家族という実感が湧いて来て、充実感もあった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
娘たちを預けて、また2人に戻って旅でもしようか。人生3度家を建てないと本当に満足の行くような家は出来ないらしいからまた頑張ろうか?無理かな?大丈夫よきっと。そう言えば、日本語教師になるって言ってた話、あれ途中じゃない?そうね。でも前よりずっと講座数が増えちゃったような話だし、大丈夫かしら?紙漉き職人になるっていうあの話は?あきらめた訳じゃないわ!男の子もいたら、沙羅や葉奈はきっと可愛がるよ。先生に相談して頑張って見ようか?本当?また女の子だったら?
病院からの帰り途、最近彼女と話したことが次々と浮かんで来ました。
思わず「敬子!」と叫んでしまいました。
その日は日曜日でした。沙羅のピアノの発表会があって、いつもより面会に行くのが遅れてしまい、5時を回っていました。「ごめんね、敬子。ピアノの発表会で、沙羅頑張ったよ。最初は少し緊張してた見たいだけど、上手だった。前よりずっときれいな音が出せるようになった。」僕はいつものように、その日の出来事を彼女に話しかけました。その時彼女の変化に気づきました。
彼女が両目を開けたのでした。わずかな時間でしたが二度。それまで左目だけは開けるようになっていましたが、両目を開けたのを見たのはその日が初めてでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
意識が戻らず、目を閉じたままだった頃は、1日でも早く目を開けて欲しいと願っていました。なのに、彼女の大きく見開かれた両目を見ると、今度はすごく切なく、悲しくなって来て、ずっと彼女の目を見ていることが出来ないのです。ずっと望んでいたはずなのに何故?
彼女の目は動くことはありませんが、僕には2つの想いが浮かんでいました。ひとつは、彼女が「もっともっと生きたい。だから頑張ってるのよ。」と訴えているんだという想い。そしてもうひとつは、「とても辛い。すごく苦しい。」と病気と闘う苦しさを訴えているんだという想い。それらが交錯していました。
その両方が彼女の中にある、と思いました。その両方と彼女は闘っているのだと。
彼女を見ていて、涙が溢れて来ました。
でも僕の中に不思議な気持ちの変化が起きていました。
敬子の容態を色々な人たちが心配してくれました。その一人にロサンゼルスに住むボブさんがいました。数年前、家族4人でハワイのマウイ島に旅した時、レストランで偶然知り合った方です。パートナーのペニーと一緒でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女が病に倒れたことを伝えました。本当に驚いた様子でした。「何か力になれることはないか?」「私はあまり信心深い方ではないが、教会にお祈りに行こうと思っている。」本当に偶然に知り合ったのに、自分のことのように心配してくれました。ペニーもその頃具合があまり良くなくて、そのこともとても気がかりだったはずなのに。倒れて1ヶ月が過ぎた頃、彼からこんなメールが届きました。
「英雄、その後敬子の様子はどう?敬子が目を醒まして、容態が良くなることを願い、祈っているよ。・・・難しいとは思うけれど、ほんの少しでいいから、混乱した頭を整理するために、自分の時間を持って見てはどうだろうか?私が言うのは簡単だけれど、英雄に今一番必要なことだし、敬子もそれを望んでいるよ。・・・」
彼の言う通りだったかも知れません。彼女が倒れて、ただうろたえるばかりで、余裕もなく、考えるのは彼女のことばかりでしたから。でも彼女は本当にそう望んでいるだろうか、その時はそうも思いました。一生懸命病気と闘う彼女に、僕はただ傍にいるだけしかしてやれない。そんな時に自分だけの時間を持つ、それは許されることなのかと、とても迷いました。でも、そうしようと決めました。
明くる日、僕は彼との約束通り、彼女にメッセージを伝えました。
「元気になって、敬子。私たちはいつも敬子のことを想っているよ。愛を込めて。ボブ&ペニー。」
緊急手術後、心配されていた脳圧の上昇についてはコントロールされていて、比較的安定していました。しかし肺炎などの合併症や脳室に水(髄液)が溜まる水頭症などに対応した治療の必要があることを中村先生から伝えられていました。
依然意識が戻らないままでいる彼女を見て、その頃ずっとあることが頭に浮かんで消えませんでした。それは「敬子だったら、どうするか?」ということでした。もし今度のことが、この僕に起きて、同じ容態になったら、彼女はどうするだろうか?と。そのことを繰り返し繰り返し考えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
再び脳にメスを入れる。再手術を彼女は望むだろうか?僕はそう考えました。なかなか答えが出ませんでした。
「意識がずっと戻らないままで、ただ生きているというだけなら、敬子はちっとも嬉しくないだろうし、意識が戻ったとしても、自分の状態が判ったらきっと悲しむわ。きっと今は自分が良くなったわと思って眠っているのよ。出来ることなら、もうこのままそっとしてあげたいの。」お母さんの言葉を思い出しました。そして僕の気持ちもお母さんと同じだと思いました。
「原因が良く判らないのなら気持ちが晴れない。もし手術して原因が判って、そして元気になれるんだったら、私手術を受ける。」彼女はそう言って手術することを受け容れました。
僕はこんな気丈な彼女ならば、きっと「再手術はお断りします。」と言うだろうと思いました。
緊急手術後、心配されていた脳圧の上昇についてはコントロールされていて、比較的安定していました。しかし肺炎などの合併症や脳室に水(髄液)が溜まる水頭症などに対応した治療の必要があることを中村先生から伝えられていました。
依然意識が戻らないままでいる彼女を見て、その頃ずっとあることが頭に浮かんで消えませんでした。それは「敬子だったら、どうするか?」ということでした。もし今度のことが、この僕に起きて、同じ容態になったら、彼女はどうするだろうか?と。そのことを繰り返し繰り返し考えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
再び脳にメスを入れる。再手術を彼女は望むだろうか?僕はそう考えました。なかなか答えが出ませんでした。
「意識がずっと戻らないままで、ただ生きているというだけなら、敬子はちっとも嬉しくないだろうし、意識が戻ったとしても、自分の状態が判ったらきっと悲しむわ。きっと今は自分が良くなったわと思って眠っているのよ。出来ることなら、もうこのままそっとしてあげたいの。」お母さんの言葉を思い出しました。そして僕の気持ちもお母さんと同じだと思いました。
「原因が良く判らないのなら気持ちが晴れない。もし手術して原因が判って、そして元気になれるんだったら、私手術を受ける。」彼女はそう言って手術することを受け容れました。
僕はこんな気丈な彼女ならば、きっと「再手術はお断りします。」と言うだろうと思いました。
敬子が倒れてから1ヶ月以上が過ぎていました。脳の状態はどうにか安定していましたが、また新たな変化が彼女の身体に起きて来ていました。それは「硬縮」と呼ばれる、脳の障害が大きく関わっている四肢の麻痺の症状でした。特に左腕から左手にかけての麻痺が最も強く、何かを小脇に抱えているような感じに曲がっていて、手首から先がまた大きく曲がり、人差し指は伸びたままになっていました。中村先生からも手術後考えられることのひとつと伝えられていた機能障害でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
痛みや、色々な治療に耐え闘っていることを、彼女は言葉にすることが出来ない。でもそのことを身体をよじらせたり、伸ばした腕を強く曲げ返すことで訴えている。それ以外に意識が戻らないままでいる彼女と気持ちを通じ合わせる方法がないのです。
硬縮は徐々に進んでいました。何日かおきに、汚れた浴衣やタオルを持って帰って、それを洗ってまた持って行くですが、「この頃、よく浴衣が破れたり、ほつれたりしているのよ。たぶん着替えさせる時にそうなってしまうのかもしれないわね。きっと着替えるのが大変なのね。だからそこを縫い直してお父さんに持って行ってもらっているの。」お母さんがそう言いました。
言われるまで気がつきませんでした。僕が浴衣を洗って持って行くのは大変だということで、代わりに実家でお母さんが洗濯をして、お父さんが病院に持って行ってくれたのです。
意識の戻らない彼女に降りかかる新たな障害。彼女の闘いはますます厳しくなる。
しかし、この僕に出来ることは、やはり彼女の傍で見守ってあげること以外に何もないのでした。
手術後、敬子の容態の安定にとって重要なことは、体温の上昇を抑えるということでした。熱が上がることで、脳圧に影響を及ぼし、それが容態の急変に繋がる恐れがあるからでした。そこで最初は「低体温法」という治療が行なわれていました。これは「ブランケット」と呼ばれるシート(その中を水が流れる仕組みになっている)で、彼女の身体をサンドイッチするような形で上下から冷やし、体温の上昇を抑えるというものでした。集中治療室に入っている時はずっとこの治療が行なわれ、効果を発揮していました。心配されたいた脳圧の上昇はコントロールされ、徐々に安定して行きました。
しかし、その後一般病棟に移ってからも微熱は続き、なかなか熱が下がり切らない状態でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「浴衣がすごく湿っていることがあるの。きっとたくさん汗をかいているのね。」とお母さんは言います。面会の時に彼女の手や額に触れると、とても熱っぽいことがあり、確かに汗をかいていました。背中や脇の下に氷枕を抱えて、体温が上がらないようにして、それでも下がらない時は座薬で抑える、そんな治療が行なわれていました。
しかし微熱は、彼女が精一杯力を振り絞って闘っていることの証でもあるように思えました。
手術後、敬子の容態の安定にとって重要なことは、体温の上昇を抑えるということでした。熱が上がることで、脳圧に影響を及ぼし、それが容態の急変に繋がる恐れがあるからでした。そこで最初は「低体温法」という治療が行なわれていました。これは「ブランケット」と呼ばれるシート(その中を水が流れる仕組みになっている)で、彼女の身体をサンドイッチするような形で上下から冷やし、体温の上昇を抑えるというものでした。集中治療室に入っている時はずっとこの治療が行なわれ、効果を発揮していました。心配されたいた脳圧の上昇はコントロールされ、徐々に安定して行きました。
しかし、その後一般病棟に移ってからも微熱は続き、なかなか熱が下がり切らない状態でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「浴衣がすごく湿っていることがあるの。きっとたくさん汗をかいているのね。」とお母さんは言います。面会の時に彼女の手や額に触れると、とても熱っぽいことがあり、確かに汗をかいていました。背中や脇の下に氷枕を抱えて、体温が上がらないようにして、それでも下がらない時は座薬で抑える、そんな治療が行なわれていました。
しかし微熱は、彼女が精一杯力を振り絞って闘っていることの証でもあるように思えました。
緊急手術後、意識が戻らず一進一退を繰り返していた敬子ですが、辛そうだなと感じていたのは、啖を自力で引き切れずに溜まってしまい、時々苦しそうに身体を震わせることが多くなっていることでした。いびきのように聞こえていたのは実は大量の啖が溜まり、それが音を立てているのでした。
「奥さんの容態は、現在は重篤な状態からは脱していますが、手術後は合併症に気をつけなくてはなりません。その中で最も発症しやすいのが肺炎です。現在重大な肺炎というわけではありませんが、今後注意深く見守って行く必要があります。」中村先生からはそう言われていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、気管切開をすると、残念なことに管が入っている間は声を失うという問題もありました。その後手術の影響が取れて容態が安定し、瞼を動かしたり、足を動かしたり少しずつ反応が出て来るようになってからは、何かを話したいのではないかと思うことが何度もありましたが、彼女はそれを声にすることが出来ないのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
気管切開後、2時間おきに啖を取りに看護婦さんが来てくれるようになりました。意識は依然戻ってはいないのですが、痛みに対する反応はあって、その時は身体を震わせます。その様子を見るのがとても辛く、特に両目を開けるようになってからは、苦しさを僕に向かって訴えているようで、楽にしてあげたいと思うようになりました。
啖を取ってもらってしばらくは、楽になったようで、かすかな寝息を立てて眠っているように穏やかに呼吸しています。でも両目は大きく見開かれ、「ああ、しんどい。」とでも言いたげです。
穏やかな呼吸のリズムと大きくかっと見開かれた目が、僕の胸を締めつけるのでした。
緊急手術後、意識が戻らず一進一退を繰り返していた敬子ですが、辛そうだなと感じていたのは、啖を自力で引き切れずに溜まってしまい、時々苦しそうに身体を震わせることが多くなっていることでした。いびきのように聞こえていたのは実は大量の啖が溜まり、それが音を立てているのでした。
「奥さんの容態は、現在は重篤な状態からは脱していますが、手術後は合併症に気をつけなくてはなりません。その中で最も発症しやすいのが肺炎です。現在重大な肺炎というわけではありませんが、今後注意深く見守って行く必要があります。」中村先生からはそう言われていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、気管切開をすると、残念なことに管が入っている間は声を失うという問題もありました。その後手術の影響が取れて容態が安定し、瞼を動かしたり、足を動かしたり少しずつ反応が出て来るようになってからは、何かを話したいのではないかと思うことが何度もありましたが、彼女はそれを声にすることが出来ないのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
気管切開後、2時間おきに啖を取りに看護婦さんが来てくれるようになりました。意識は依然戻ってはいないのですが、痛みに対する反応はあって、その時は身体を震わせます。その様子を見るのがとても辛く、特に両目を開けるようになってからは、苦しさを僕に向かって訴えているようで、楽にしてあげたいと思うようになりました。
啖を取ってもらってしばらくは、楽になったようで、かすかな寝息を立てて眠っているように穏やかに呼吸しています。でも両目は大きく見開かれ、「ああ、しんどい。」とでも言いたげです。
穏やかな呼吸のリズムと大きくかっと見開かれた目が、僕の胸を締めつけるのでした。
「何が最善の途かは、私に断言することは出来ません。ただ個人的には、やれると思うことは何でもやるということが最善の途であるとは思いません。事実、何でもやって見た後で、やはりやるべきではなかったと考えた方もおられます。勿論、かなりの効果が期待出来ると考えた場合は、私たちの方からも治療をお奨めしています。ただ奥さんの場合、病理組織診断の結果もかなり厳しく、現在の容態で放射線治療や抗がん剤治療を行なっても、劇的な回復は難しいと思います。ただそれらを行なわないからといって、何もやらない、やるべきことをやらないということではないと思います。ですからご主人がそのことで悔いることはないと思います。
少し迷いが晴れました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「何が最善の途か。」これについては色々な考え方はあると思います。中村先生の話を聞いて、気持ちが落ち着いたとはいえ、その後もずっと頭から離れることはありませんでした。
事実、その後啖を自力で引くことが非常に難しくなり、肺炎をひどくしてしまう恐れもあるという先生の説明を受け、少しでも彼女が楽になるようにと考えて気管切開を行ないました。しかし水頭症の治療については迷いました。先生の説明では開頭手術に比べれば技術的に難しいものではない。しかし、当然リスクはある。また手術をすることでどれだけの効果が期待出来るかについては確実なことは言えない。手術をした部分の皮下に水(髄液)が溜まり、膨れて来ました。それを見ると確かに辛い。しかしもうこれ以上、辛い思いもさせたくない。
色々な思いが交錯するようになっていました。
「何が最善の途かは、私に断言することは出来ません。ただ個人的には、やれると思うことは何でもやるということが最善の途であるとは思いません。事実、何でもやって見た後で、やはりやるべきではなかったと考えた方もおられます。勿論、かなりの効果が期待出来ると考えた場合は、私たちの方からも治療をお奨めしています。ただ奥さんの場合、病理組織診断の結果もかなり厳しく、現在の容態で放射線治療や抗がん剤治療を行なっても、劇的な回復は難しいと思います。ただそれらを行なわないからといって、何もやらない、やるべきことをやらないということではないと思います。ですからご主人がそのことで悔いることはないと思います。
少し迷いが晴れました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「何が最善の途か。」これについては色々な考え方はあると思います。中村先生の話を聞いて、気持ちが落ち着いたとはいえ、その後もずっと頭から離れることはありませんでした。
事実、その後啖を自力で引くことが非常に難しくなり、肺炎をひどくしてしまう恐れもあるという先生の説明を受け、少しでも彼女が楽になるようにと考えて気管切開を行ないました。しかし水頭症の治療については迷いました。先生の説明では開頭手術に比べれば技術的に難しいものではない。しかし、当然リスクはある。また手術をすることでどれだけの効果が期待出来るかについては確実なことは言えない。手術をした部分の皮下に水(髄液)が溜まり、膨れて来ました。それを見ると確かに辛い。しかしもうこれ以上、辛い思いもさせたくない。
色々な思いが交錯するようになっていました。
手術後の治療をどうして行くか。これは経過を見ながら、先生と相談して決めなければならない重要な問題でした。一般的に言われているのは、開頭手術後の病理組織診断によってその原因を最終的に確定し、以降経過を見ながら放射線治療や抗がん剤治療を併行して行なっていくことのようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「奥様はまだ意識が戻っていません。しかし、放射線治療にせよ、抗がん剤治療にせよ、肉体的な苦痛が伴いますし、副作用もあります。ご本人の了解が得られない状況ですから、その判断をご主人やご家族にお願いすることになります。」中村先生からはそう伝えられました。
僕は迷いました。彼女に意識がなくて了解は得られなくても、考えられる治療はすべてやるべきか。たとえ1日でも残された時間が延びるのであれば、それは彼女にとっていいことなのか。」「一体どうすることが最善の途なのだろうか?」という問いが浮かんでいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
数日考えて、僕は中村先生に「放射線治療や抗がん剤治療を行なうことで、1日でも生きる時間が延びるのであれば、その途を選ぶのが最善の途なのかもしれませんが、僕はもし妻だったらと考えて見て、その途を選ばないように思えてならないのです。ですから、放射線治療も抗がん剤治療もお断りしたいのです。」
先生にそう伝えた後も、実はまだ迷っていました。
すると先生は、こう言ったのでした。
手術後の治療をどうして行くか。これは経過を見ながら、先生と相談して決めなければならない重要な問題でした。一般的に言われているのは、開頭手術後の病理組織診断によってその原因を最終的に確定し、以降経過を見ながら放射線治療や抗がん剤治療を併行して行なっていくことのようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「奥様はまだ意識が戻っていません。しかし、放射線治療にせよ、抗がん剤治療にせよ、肉体的な苦痛が伴いますし、副作用もあります。ご本人の了解が得られない状況ですから、その判断をご主人やご家族にお願いすることになります。」中村先生からはそう伝えられました。
僕は迷いました。彼女に意識がなくて了解は得られなくても、考えられる治療はすべてやるべきか。たとえ1日でも残された時間が延びるのであれば、それは彼女にとっていいことなのか。」「一体どうすることが最善の途なのだろうか?」という問いが浮かんでいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
数日考えて、僕は中村先生に「放射線治療や抗がん剤治療を行なうことで、1日でも生きる時間が延びるのであれば、その途を選ぶのが最善の途なのかもしれませんが、僕はもし妻だったらと考えて見て、その途を選ばないように思えてならないのです。ですから、放射線治療も抗がん剤治療もお断りしたいのです。」
先生にそう伝えた後も、実はまだ迷っていました。
すると先生は、こう言ったのでした。
2000年9月25日〜2001年4月11日。
●2000年9月25日。/●国立病院東京医療センター。/●突発性てんかん。/●夏祭り。/●思い遣り。/●2000年10月3日。/●「おやすみ。」/●2000年10月6日。/●脳。/●運動会。/●救いの手。/●沈黙の闘い。/●嫁ぐ日のこと。/●声。/●携帯電話。/●ケア・コーディネーター。/●大嶽さん。/●有意義な生活。/●多形性神経膠芽腫。/●2000年10月19日。/●インフォームド・コンセント。/●水頭症。/●ジテドラ。/●ピンクの傘。/●放射線治療。/●最善の途。/●外泊。/●MRSA。/●カンジダ。/●運命の二人。/●気管切開。/●男の自立。/●一通のメール。/●微熱。/●硬縮。/●「敬子だったら、どうするか?」/●退院の日。/●海の向こうから。/●2000年11月4日。/見開かれた目。/●「敬子さんに何を望みますか?」/●2000年11月22日。/●意識障害。/●「ゆっくりね。」/●生きる力。/●貌つき。/●生活のリズム。/●励まし。/●重い現実。/●あいたぺあぺあつうしん。/●10年日記。/●書き写された詩。/●髄液。/●独りぼっちのクリスマス。/●爪。/●愛するということ。/●勇気と元気。/●遠い昔。/●三人ベッド。/●四人部屋。/●自信と信念。/●選ばれた理由。/●綾戸智絵さん。/●必ず晴れる。/●穏やかな眠り。/●新しいいのち。/●静かなる進行。/●エリック・サティ。/●リハビリテーション。/●移り行く季節。/●2001年2月7日。/●人工呼吸器。/●Love Needs A Heart./●「攻める柴田が欲しいんだ。」/●優しい眼差し。/●1975年の少女たち。/●電話の音。/●残された時間。/●溢れる愛。/●募る想い。/●延命。/●「あなたに会えて本当に良かった。」/●「また明日ね。」/●夢のカリフォルニア。/●春一番。/●痛み。/●尊厳ある死。/●弱まり行く力。/●想い出作り。/●2001年3月21日。/●千羽鶴。/●呼吸停止。/●歌声。/●男の涙。/●怖れ。/●マラソンランナーの孤独。/●体温。/●桜の花の散る前に。/●或る朝。/●黄色いワンピース。/●2001年4月11日。/●「ありがとう。」/●ホーム・アゲイン
2001年4月12日〜2001年4月14日。
●敬子らしく。/●人と人を繋ぐ人。/●離別と不安。/●送る言葉。
1978年夏〜1982年春。
●長浜館。/●大塚名画座・東急ハンズ。/●真夜中のカウボーイ。/●カウチンセーター。/●秘密。/●風のような女の子。/●門前払い。/●亀戸天神。/●名誉のポロシャツ。/●初めてのデュエット。/●街の音。/●自由が丘。/●リチャード・ブローティガン。/●You Can Close Your Eyes./
1982年春〜1984年冬。
●銀座。/●エンゲージリング。/●ホテル横須賀。/
1985年夏〜1989年夏。
●雨降って、地固まる。/●サテンドール。/●幸せの灯り。/●ハネムーン。/●三軒茶屋サンライズ。/●Wonderful Tonight./●斑尾。/●マウイ。/●高寺。/●ベティ。/●幻のシンガポール。/
1990年夏〜1994年夏。
●沙羅。/●ビッグ・サー。/●仲人。/●グラハム&スーザン。/●バブル。/●退職祝。/●有限会社シーバーズ・ワークショップ。/●葉奈。/
1994年夏〜2000年9月24日。
●僕たちの家。/●子育て。/●東大駒場。/●素人写真家。/●バースデーケーキ。/●らでぃっしゅぼーや。/●名前。/●夢見る年頃。/●自転車。/●還る場所。/●三人目のお母さん。/●不良中年。/寂しい夜。/●Will You Love Me Tomorrow?●中毒。/●アメリカンインディアンの教え。/●メカニック・ママ。/●二つ目のジュエリー、/●君の友達。/●火曜サスペンス。/●二人の父。/●ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ。/エリック・アンダーソン。
●さようならコロンバス。/●ビッグ・ピクチャー。/●年賀状。/●2000年9月24日。/●潤という名のワイン。/●この人生に賭けて。(あとがきに代えて。)/
●引用させていただいたホームページ。
●忘れ得ぬ歌、映画そして本。
敬子が入院してからというもの、毎日彼女のことばかりが気にかかって、何も目に入らない、何も手につかない、そんな状態が続いていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そんな或る日。本当に久し振りに葉奈と一緒に、彼女がそう呼んでいた、ジテドラ(=自転車ドライブ)に出かけました。自転車がかなり上達した葉奈と決めていたいつものコース。慣れた道なので、先頭を行くのは葉奈。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「葉奈。今日はもっと遠くまで行って見ようか?」「うん、行く。」そこでいつもとはずいぶんコースを変更して遠回りをしました。経堂まで足を伸ばし、葉奈の通う幼稚園の脇を通って、豪徳寺の商店街に戻って来ました。「アイスクリーム食べようか?」「うん。食べる、食べる。」葉奈と2人で、時には沙羅と3人でジテドラをする時は決まって、アイスクリームやソフトクリームを食べました。そしてそのことは、「ママには内緒」の僕たちだけのささやかな秘密なのでした。
ジテドラはとてもいい気分転換になりました。そしてそれは葉奈にも同じようでした。自転車を駐車場にしまっている時、葉奈が「ダダ!飛行機雲だよ。」と僕を呼びました。空を見上げたら、前日の雨はすっかり上がって、気持ちのいい秋の空が広がっていました。そこには確かに飛行機雲がありました。「飛行機に乗って、またハワイに行きたいな。葉奈ね、飛行機大好きなの。」「そうだな。またハワイに行こうか。」「ママが戻って来たらね。」
ほんのつかの間一般病棟に移ったことはあるものの、集中治療室に入っていた時から、12歳以下の子どもは面会を控えて欲しいという病院の指示もあり、電話で話をして声を聞くことは出来たけれど、彼女にはずいぶん会っていないのでした。沙羅や葉奈は寂しいのをこらえて、毎日頑張ってくれている。沙羅と葉奈がいてくれて、本当に良かった。この娘たちがいなかったら、この僕はどうなっていただろうか?そんな想いが過ぎりました。
飛行機雲はまだ、秋の空に長く長く伸びていました。
緊急手術からおよそ2週間。敬子に少し変化が起きていました。「水頭症という脳室に水が溜まって大きくなる傾向が出始めています。これによってコントロール出来ていた脳圧が再び上がってしまう可能性もあります。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「水頭症とは脳室(脳の水がたまる部屋でそれぞれ側脳室・第3脳室・第4脳室などの名前の付いた部屋があります。)などに異常に大量の髄液(脳や脊髄の周りを循環している透明の水)が貯留し、脳室などが拡大した状態を言います。(中略)成人では1日に3回転し、約450mlもの髄液が産出されたh吸収されると言われています。何かの原因で(1)脳脊髄液が異常に多く産出されたり(2)髄液の循環がどこかで閉塞されたり(3)髄液の吸収が障害されることによって水頭症という病態が起こってきます。水頭症の治療には通常脳室腹腔シャント術を行います。脳室から過剰な髄液を皮下通したチューブで腹腔内に導き腹腔で吸収させるものです。最近では神経内視鏡で第3脳室の底に穴をあけてその下にある脳底のくも膜下腹腔交通をつける治療も行います。これは但しくも膜下腔の循環が保たれている人しか効きません。」
先生はこうも言いました。「経過を見ながら判断しなければなりませんが、ご心配の、容態がどれほど改善するかについては何とも言えません。シャント手術は、技術的には難しくはありませんが、リスクはあります。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕は迷いました。「意識がずっと戻らないままで、ただ生きているということだけなら、敬子はちっとも嬉しくないだろうし、意識が戻ったとしても、自分の状態が判ったらきっと悲しむわ。きっと今は自分は良くなったわと思って眠っているのよ。出来ることなら、もうこのままそっとしてあげたいの。」お母さんの言葉も沁みました。
まだ意識の戻らない彼女の脳に再びメスを入れる。それは本当に最善の途なのだろうか?本当に彼女はそれを望むだろうか?色々なことが頭を巡りました。
でも答えは出ませんでした。
インフォームド・コンセント。聞き慣れない言葉だと思います。と或るホームページにこんな風に説明されていました。
「我々は病気の時に病院や診療所などに行き、病気を診断してもらい治療を受ける。この時患者は医師や看護婦さんなどから検査や治療についていろいろと十分に説明を受けて、疑問点などを解消し、心から納得して検査なり治療を受けることに同意することをインフォームド・コンセントと言う。しかし、我が国では歴史的に「医師は悪いようにはしない」と医師も患者も考え、医師にすべてを任せ、医療をそれなりに行ってきた事を考えると、少し戸惑いが両者に有ると思われる。インフォームド・コンセントのはじめは、患者と医療関係者とのコミュニケイションである。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
敬子の主治医である中村先生は、彼女の病状とその経過について、また治療方針について、解りやすく、ていねいに教えてくれました。勿論時には、それはとても聞くのが辛く、病気と闘っている彼女を想うと、悲しくてやり切れないこともありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、刻々と変化する彼女の病状を出来る限り知っておきたいという気持ちが次第に強くなっていました。そのことが、沈黙の闘いを続ける彼女の頑張りに応えることだと思ったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「説明と同意」。インフォームド・コンセントはこう訳されることが多いようですが、意識がなかなか戻って来ない彼女に代わって僕が果たさなければならない、重要な役目でした。
余命は半年から長くても2年。中村先生の口から出た言葉は、あまりに残酷なものでした。それからしばらく呆然としてしまいました。そしてまた、敬子の容態が急変し、緊急手術を行なった時思った、「何で敬子が、こんな風にならなければならないんだ。」「10万人に10人の発症率の病気に、何故彼女が選ばれたのだ。」とにかく「何故、敬子が?」それしか頭に浮かんで来ませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「もしかするとごく稀に遺伝的な要因はあるのかも知れませんが、一般的に遺伝とは関連しません。また食生活とか、過労とか、仕事によるストレスなども、脳に関していえば関連性は少ないと思います。身体のどこかに癌が出来ていたものが脳に転移す場合もありますが、奥様の場合はそのような転移性の腫瘍ではありません。前にもお伝えしたように原発性で、精密検査や開頭手術によって腫瘍を摘出し、検査分析した結果、脳腫瘍が確認され、その種類を特定出来たのです。そういう意味では、何故腫瘍が出来るのか、或るいは何故奥さんの脳に腫瘍が出来たのかについての原因は良く判らないというのが現実です。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やはり原因は判らない。彼女が手術前に言っていた、「何か原因が判れば気持ちが晴れるわ。」という点では、倒れた原因は脳腫瘍と判ったのだけれど、「それが何故彼女の脳に出来たのか。」は、やはり判らないままでした。必死に闘っている彼女の無念の声が聞こえて来るようでした。
脳は、あまりに複雑で精緻で、これだけ医学が進歩した今も、まだまだ未知の領域なのです。
日々いや一瞬一瞬が過ぎて行くのをこんなに切実に、切なく感じたことは一度もありませんでした。
余命は半年から長くても2年。中村先生の口から出た言葉は、あまりに残酷なものでした。それからしばらく呆然としてしまいました。そしてまた、敬子の容態が急変し、緊急手術を行なった時思った、「何で敬子が、こんな風にならなければならないんだ。」「10万人に10人の発症率の病気に、何故彼女が選ばれたのだ。」とにかく「何故、敬子が?」それしか頭に浮かんで来ませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「もしかするとごく稀に遺伝的な要因はあるのかも知れませんが、一般的に遺伝とは関連しません。また食生活とか、過労とか、仕事によるストレスなども、脳に関していえば関連性は少ないと思います。身体のどこかに癌が出来ていたものが脳に転移す場合もありますが、奥様の場合はそのような転移性の腫瘍ではありません。前にもお伝えしたように原発性で、精密検査や開頭手術によって腫瘍を摘出し、検査分析した結果、脳腫瘍が確認され、その種類を特定出来たのです。そういう意味では、何故腫瘍が出来るのか、或るいは何故奥さんの脳に腫瘍が出来たのかについての原因は良く判らないというのが現実です。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
やはり原因は判らない。彼女が手術前に言っていた、「何か原因が判れば気持ちが晴れるわ。」という点では、倒れた原因は脳腫瘍と判ったのだけれど、「それが何故彼女の脳に出来たのか。」は、やはり判らないままでした。必死に闘っている彼女の無念の声が聞こえて来るようでした。
脳は、あまりに複雑で精緻で、これだけ医学が進歩した今も、まだまだ未知の領域なのです。
日々いや一瞬一瞬が過ぎて行くのをこんなに切実に、切なく感じたことは一度もありませんでした。
或る病院のホームページで見つけたグリオーマの説明をそのまま引用すると、
「(悪性)グリオーマとは
グリオーマは、本来は神経細胞の間にあって色々な意味で神経細胞を支えているグリアという細胞が、腫瘍化したものです。全脳腫瘍の中で最も多く(33%)、代表的な腫瘍です。しかしこの中にも比較的良性のものから、最悪性のものまで多くの種類が有ります。しかし、いずれの悪性度でも浸潤性に脳を侵し、徐々に進行し脳組織の損傷による障害が出現します。病気の進行と共に脳の損傷は強くなり、半身不随などの重篤な神経症状が出るだけでなく、頭蓋内の圧が上昇します。これは頭蓋骨という一定容積の入れ物の中に腫瘍という余分なものができたことと、脳の腫れによる脳そのものの大きさの増加によるものです。腫れた脳は行き場を失って、本来頭蓋内にある隙間から飛び出します。これが脳嵌頓(ヘルニア)と言われる極めて危険な状態で、脳の深部の出血を伴い患者さんを死に至らしめる大きな原因となります。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
数時間に及ぶ手術の後、「現時点で出来る限りのことは、やれたと思います。」と中村先生は言ってくれました。しかし、手術のために行なった全身麻酔が切れる時間が過ぎても、彼女の意識は戻って来ません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
結果が出ました。10月19日。中村先生からこう説明を受けました。「詳しくはレポートが来ますが、腫瘍の名前は『多形性神経膠芽腫』。腫瘍の中では最も悪性度の高いものです。お辛いこととは思いますが、一般的な症例としては余命半年から長くても2年です。勿論望みは捨てませんが、これが病理組織診断の結果です。」
僕とお父さんは言葉を失いました。
余命?そんなことが彼女に起きてしまったなんて。
敬子が倒れ、慌てふためいてしまいましたが、とにかく先生から説明されたことを少しでも理解しようと思って、手当たり次第、関連するホームページを検索しました。色々ありました。専門用語がいっぱいの難解なホームページから、病気とタタキ、今は一生懸命にリハビリに取り組み、その一環として開設したというご本人の言葉が添えられた個人のサイトまで。それぞれがとても意味深いものでした。そんな中のとある病院が開設しているホームページにこんな言葉が書かれていました。
「説明しましたように、いかなる治療も現在の医学では、延命効果を目指すのみで完治は望めませんが、出来うる限り、有意義な生活を一日でも長く送っていただくためには、(彼女のような)患者さんの場合は開頭手術による摘出術及び手術後放射線療法、化学療法の併用がよいと我々は考えています。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「有意義な生活」。この言葉がすごくひっかりました。今はとにかく、彼女が1日でも早く回復するように懸命の努力をする。必要な治療があれば受ける。それが最優先でした。しかし一方で、彼女が回復して、仮に何らかの障害が残ったにせよ、家に戻ることが出来たとして、彼女にとっての「有意義な生活」とは一体どんな生活なのだろうか?そんな想いが「しっかり、敬子。みんな待ってるからね。」という願いと、どうしても交錯してしまうのでした。
あれだけ、元気に色々なことをしっかりこなしていた彼女が、もし、車椅子あるいは寝たきりの生活になったのなら。彼女はどんな風に感じるのだろうか?沙羅や葉奈は?そしてこの僕は?彼女を愛する多くの人たちは?
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
今度は「脳腫瘍」に関する情報を色々検索しました。
そして後で聞くことになった「グリオーマ」という言葉にぶつかりました。
緊急手術後、敬子の意識はなかなか戻って来ませんでした。毎日面会に行く度に、耳元で大きな声で、彼女の名を呼ぶのですが、叶いません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女は眠ったままです。でも、もしかするとちゃんと聞こえているかも知れない。その時、無性に彼女の声が聞きたくなりました。
笑い声、怒ったような声、少し寂しげばな声、夜、娘たちにお話を聞かせている時の優しい声、二人で出かけた夜の嬉しそうな、ちょっとはしゃいだ声、ピロートークをした時の抑えた艶っぽい声。何年も一緒に過ごして耳慣れたはずの彼女の声をどうしても聞きたくなりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「意識というのをどう捉えるかも非常に難しい問題です。奥様が、相手の言うことが解ってそれに対して何らかの対応が出来る。これが今私たちがめざしている意識の回復ということです。しかしこれだけ長く意識が戻らないでいるということは、脳に対するダメージはかなり大きいと言わざるを得ません。勿論最善を尽くしますが、意識が戻られた場合でも、倒れてしまった以前の状態にまで回復されるかどうかは微妙です。率直に言って、かなり難しいと思います。」
先生の口から出た言葉は非常に酷なことでした。でも彼女は闘っている。きっと僕たちの声は彼女に届いている。
せめて一度ていいから、目を醒まして。そして僕たちの名を呼んで。もっともっと話したいんだ。話したいことが山ほどあるんだ。
僕は心から彼女の声が聞きたいと思いました。
今でも良く憶えていますが、僕はその朝悪い夢を見たらしく、とても早く目が醒めました。前の晩、敬子の「おやすみ。」と言う声を聞いて安心して、「これなら何とかなる。」と希望を持てたはずなのに。午前7時半を回った頃でした。電話が鳴りました。病院からでした。「奥様の容態が今朝方、急変しました。とにかくすぐいらしてください。」足がガクガクしました。身体も震えました。車に飛び乗って病院に向かう途中も、「一体どうしたんだよ?何が起きたんだよ?」それだけが繰り返し頭に浮かんで来ました。
およそ20分後病院に着き、中村先生から説明を受けました。「今朝3時から6時までの間だと思いますが、再度出血がありました。今昏睡状態で、緊急に手術をしませんと、命が危ないと思います。」「お願いします。」僕は、緊急手術を承諾し、手術の際に大量の輸血も必要になるとのことから、「輸血・血漿成分製剤承諾書」にもサインしました。
手術開始は午前9時。色々な人が慌ただしく動き回っていました。この僕は何ひとつ彼女の手助けが出来ず、手術室に運ばれて行く彼女をただ見送るしかありませんでした。手術終了は午後2時半頃。その後、中村先生から手術について説明を受けました。「右側頭葉に再出血があったようです。脳ヘルニアの兆候が見られ、脳と脊髄を繋ぐ脳幹の障害があることを示す瞳孔不同があり、光に対する反射も見られなくなったため、緊急に手術を行ないました。腫瘍は極力摘出しましたが、出血がひどく取り切れてはいません。現時点で出来る限りのことはやれたと思います。腫瘍の確定は、病理の先生に依頼しますが、1週間から10日ぐらいはかかります。」
昨日の晩まで、容態が快方に向かっているように見えた彼女が、しかも先生も安定していると言っていた彼女が何故?先生から説明を受けながら、そんなことが頭を巡っていました。確かに急変もあり得るとのことではあったけれど。
後日、中村先生はこうも言いました。「少なくとも、私が担当した中で、これだけ短い期間でまた出血するというのは初めてのnケースです。予想以上に進行が速いのかも知れません。」
病状の進行?彼女の脳の中にまだ残る腫瘍は、これからまた出血するのか?
僕の頭にはまた、不安だけが渦巻いていました。
一般病棟に移ったのはわずか4日ほどでしたが、敬子は、点滴も外されていて、11年前、沙羅を宿して、大事を取って入院した時とさほど変わらぬ様子でした。しかし、何度かのCTスキャンやMRIなどの精密検査で、入院当初の「右側頭葉脳内出血一部脳室内血腫が見られる」という診断から「どうしても脳腫瘍の疑いが晴れず、最終的に確実な診断をするために開頭手術が必要である」と見方が変わっていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
それから病室に行きました。その日の彼女はだいぶ気分も良くなっていたらしく、「歩きたいな。」と言うので、僕の肩につかまってベッドを降り、歩きました。少しふらついているようでしたが、一歩一歩確かめているようでした。「一般病棟に移れてほっとしたわ。」「そうだな。手術すればきっと良くなるよ。頑張ろうなママ。」「うん。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
その夜の8時半頃、電話が鳴りました。驚きました。病院から?また彼女に何か起きたのか?急いで電話を取りました。
彼女からでした。「私、ママです。看護婦さんにそばにいてもらって電話してるの。沙羅や葉奈の声がどうしても聞きたくて。」「沙羅、ママから電話だよ!」僕はすぐに沙羅に電話を渡し、お母さんとお風呂に入っていた葉奈にも取り次ぎました。「ママ元気になってね。葉奈も頑張ってるから。」二人ともママに声が聞けてすごく喜んでいました。そして少し安心したようでした。彼女も「よかった声が聞けて。ママ頑張るから。」と、とても嬉しそうでした。「解った。また明日行くからね。それじゃね。おやすみママ。」「うん。おやすみ。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
そうして電話は切れました。10分ぐらいの短い出来事でした。でもすごく嬉しかった。「大丈夫だ。これならきっと良くなる。」不安は消え、何か希望が湧いて来る感じがしました。
でも、それが彼女の言葉を聞いた最後でした。
「これ以上精密検査を重ねても、最終的な診断をすることは出来ません。そのためには開頭手術を行なって、病理組織診断を行なう必要があります。出来れば手術を10月12日に行ないたいのですが。」その日、中村先生からそう伝えられました。開頭手術。見た感じは次第に回復して来ているように思えただけに驚きました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
明くる日は朝から雨が降っていました。午後3時。面会に行きました。敬子は少し眠そうでしたが、だいぶ元気を取り戻しているように見えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「ちょっと相談があるんだけどいい?昨日中村先生と話したんだ。これまでの色々な検査で、脳出血があったことは確実に判ったんだけど、それ以上詳しくはCTスキャンやMRIだけじゃ判らなくて、確実に診断するために開頭手術をして、摘出した細胞を顕微鏡を使って分析しないとダメ見たいなんだ。僕はそれが最善の方法ならやった方がいいと思うんだけど、ママはどう思う?」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
しかし、彼女にそう伝えて、家に戻る途中、思ったよりは容態は良くないのかも知れない。そんな不安がふと過ぎりました。あんなに気丈に手術を受け容れた彼女に済まないと思いました。
でもどうしてもその不安を拭い切れませんでした。
敬子は9月25日に倒れました。あまりに突然でしたが、今にして思えば。その少し前に兆しはあったのかも知れません。9月の初め、沙羅が通う小学校で夏祭りがあった時、気分が悪くなって、家に戻ってしばらく休んだことがありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
彼女も僕も「夏バテ」と思って、さほど気にかけませんでした。しかし良く考えると、気になることがありました。「頭が痛い。」と彼女は言っていたのでした。数日後、その頭痛も消えましたが、「頭が痛い。」と言ったのは、実は長い間一緒にいて、初めてのことでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
倒れた後で、色々調べたら、脳腫瘍の典型的な症状は「頭痛」ですし、突発性てんかんと診断された後、時々発作が起こり、一瞬ではあったけれど、「歩き方や話の内容や話し方がおかしくなる」というのも、もしかすると関連があったのかも知れません。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「今年は暑いが続いてやんなっちょう。さすがにバテたわ。」としきりにこぼしていたこと。確かに今までよりは、疲れてだるくなったり、眠くなったりすることが多かったこと。もう少し注意深く見ていれば、彼女の微妙な変化に気づいたかも知れない。彼女が「大丈夫、大丈夫。」と言っていたその言葉にもしかしたらいつもと違う意味が込められていたかも知れない。
そう思うと、やり切れない悔いが残ります。
その日の敬子は、普段と変わらぬ様子でした。夕方に、ご近所の神武(コウタケ)夏子さんのピアノコンサートが銀座の王子ホールで開かれることもあって朝から色々と忙しく動き回っていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
コンサートには、彼女の知り合いも大勢来ていて、「お久し振り。元気だった?」と声をかけ合ったり、とても和やかでした。ピアノにも聴き入って、「すごく良かった。何度も聴いたけど、やっぱりサティの曲がすきだなぁ。」と感想も言っていました。コンサートが終わってから、沙羅を連れて久し振りに銀座を歩き、アイスクリームを食べたりしてちょっと時間を過ごしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
午後10時を過ぎた頃でした。「ダダ!大変!ママが倒れてる!」3階から沙羅の驚いた声。僕は階段を駆け上がりました。彼女はベッドに倒れ込むようにして、朦朧とした感じで、「頭が痛い。」と繰り返していました。そしてむせ返るような仕草の後、ひどく吐きました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
僕はとにかく急いで救急車を呼びました。午後11時を過ぎた頃でした。救急車が到着したのが、およそ20分後。どんな様子だったかを訊かれたので、出来るだけ正確に伝えようとしましたが、良くは憶えていません。とにかく慌てていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「一体何が彼女に起こったのだ?」病院へ着くまでの間、僕にはそれしか頭に浮かびませんでした。
2000年9月25日、深夜。妻敬子は、突然病に倒れました。
様々な精密検査、そして開頭手術、病理組織診断の結果、
多形成神経膠芽腫という最も悪性度の高い脳腫瘍に冒されていることが判りました。
あまりに突然で、僕はうろたえました。
「どうして敬子が?」
「あんなに元気だったのに何故?」
「一生懸命家族で頑張って来たのに。」
「まだ40を過ぎたばかり。これからもっと
楽しい時間を一緒に過ごしたいと思っていたのに。」
そんなことばかりが頭に浮かんで、絶望的になってしまいました。
でも色々な方の励ましや支えのおかげで、
そして最期まで自分らしい生き方を全うした彼女のおかげで、
僕は立ち直るきっかけをもらいました。
この本は彼女の199日の闘いの記録です。
と同時に僕たちが一緒に過ごした日々の記録です。
彼女に関わりの深い方には、彼女がどんな風に生きたかを伝えたくて。
また、僕がまだ知らないでいる彼女のことを教えてもらいたくて。
また愛する人の突然の病に、僕と同じような経験をされた方には、
僕たちのこれからの生き方に励ましやアドバイスをいただきたくて。
今もご家族が、愛する人が病と闘っておられる方には、少しでも心を癒やせたら。
彼女が僕に残してくれた沙羅、そして葉奈の二人の娘には、
僕たちがどんな風に出会い、どんな想いで二人を育てたのかを
いつの日か想い出して欲しいから。
ここに記されているのは、ごく普通の二人のそして家族のことです。
でもどんな人にも起こりうることでもあります。
分かち合えば喜びは倍になり、痛みや悲しみは半分になると言います。
この本がそんな力を持っていればいいなと思います。
そしてぜひ、大切な人と読んでいただけたらとも思います。
2001年4月11日。小社取締役でもあった妻、柴田敬子は2000年9月脳腫瘍に倒れ、半年に及ぶ闘病の末、この世を去りました。
その間励まし、力づけていただいた多くのみなさんと妻への感謝の気持ちを込めて、一冊の本に著そうと思い立ち、出来上がったのが、この一冊です。
発行者:柴田 英雄
発行所:シーバーズ・ワークショップ
編集・デザイン:荒木デザイン室
製版・印刷・製本:オー・ジー・シー