|  All Pages |  1  |  2  |  3 

2005年09月09日

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/「あなたに会えて本当に良かった。」(抜粋)

 或る夜、娘たちと食事を終えて、テレビを点けたら、歌が流れていました。コンサートライブの映像で小田和正さんがピアノを弾きながら歌っていました。生命保険会社のCMで、さりげない1コマを映したモノクロ写真と併せて「あなたに会えて本当に良かった。」という歌詞が心に残りました。
 彼が昔「オフコース」という人気グループにいた頃、学生だった敬子も大好きでコンサートにも出かけたり、自分たちのバンドでも何曲か演っていましちゃ。恋人たちの出会いや別れ、前向きに生きて行くことは大変だけれど大事なことなどを、率直な歌詞ときれいなハーモニーで聴かせてくれました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「あなたに会えて本当に良かった。」簡単な言葉かも知れませんが、心からそう思って言葉にするのは難しいと思います。この僕も、彼女が余命宣告を受けるほどの重い病に倒れ、貴重な時間を精一杯生き抜いている今になって初めて、彼女に会えたことを心から良かったと思えるのです。確かに、病と、次々に降りかかってくる困難と闘う彼女を見ているのはとても辛いことではありましたが。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
長い眠りから目を醒まして僕たちを見て、名前を呼ぶ。そんな奇跡を信じたい、起こって欲しいと思っていました。しかし、こうして毎日を精一杯生きる、そのこと自体がすでに奇跡なのではないかとも思えるのでした。
 僕は?彼女が強い女性であることを改めて感じました。しかし、そんな彼女に応えることが出来ているだろうか?いつまた容態が急変するかも知れない。そのことが不安で、怯えてしまっていて、電話の音にさえ過敏になって、ただ呆然と、漫然と日々を過ごしているだけではないのか?
 しかしこれだけは、彼女に言いたいと心から思いました。
 「敬子。ママ。あなたに会えて本当に良かった。」

at 23:39 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/延命。(抜粋)

 容態の急変の可能性が高まったと告げられてから10日ほどが経っていました。敬子の容態は安定しているように見えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「急変の可能性が高まったと言われたのでとても不安なのですが、今後はどんな治療になって行くのでしょうか?頭もだいぶ膨らんで来ていますし。」「腫瘍から出血がありましたし、水頭症も確実に進んでいますから、急変の可能性は高いと思います。・・・・・・・・・・・・・ただ水頭症の影響で脳室がかなり大きくなっていますから、脳圧が上がり、再び脳ヘルニアに繋がる可能性も否定出来ません。・・・・・・・・・・仮に水頭症の手術を行なっても、前にお話した通り、容態の回復に繋がることは極めて難しいと思います。手術は延命効果を期待するためのものになります。ただ水頭症はあくまで合併症で、その症状が進んでいるのです。病状の主因は脳腫瘍です。少しずつですが大きくなっていますし、それが今後また出血する可能性もやはり否定出来ません。今度出血すれば非常に厳しい状況になると言わざるを得ません。」「何故こんなに短期間に出血があったのでしょうか?」前に先生に訊いたことを思い出しました。「奥さんの場合に特徴的だと言えるのは、腫瘍も含め、非常に血管が多いということです。前回もそのために出血がかなりひどく、腫瘍を切り取ることが難しかったのです。」
 延命効果。色々なホームページを検索して、その言葉を何度も目にして、ある程度覚悟していたつもりでした。しかし、中村先生からはその時初めて聞いたように思います。
 せめて1度でいいから、どんなに短くてもいいから長い眠りから目を醒まして、僕たちのことを見て、そして僕たちの名を呼んで欲しい。まだ彼女の闘いは報われていない。
 そんな奇跡が起こることを信じたい、起こって欲しいのでした。

at 23:15 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/募る想い。(抜粋)

 でも、僕には気になることもありました。それは子どもたちに募る、ママがいない寂しさでした。
 沙羅は幼稚園からずっと近所にあるアトリエに通っています。写生したり、自由に絵を描いたり、粘土で色々なものをこしらえたり、週1回の習い事は、創作意欲旺盛な沙羅にはとても楽しい時間です。そんな沙羅が色々な形に厚紙を切って貼りつけて作って来た絵を見てびっくりしました。先生のコメントの最後にこう書かれていました。「・・・色がないのがちょっとさみしいかな?」確かにそれまでのとは違っていました。色がないのです。いつもきれいな色遣いの絵や粘土細工が多かったのに、その絵は白と灰色なのです。太陽や星や、蝶々がいるのに。
 元気一杯、天真爛漫が持ち味も葉奈も、食事時や、ちょっとした瞬間に少し遠くを見るような表情をすることが増えていました。お腹が空いたと言うのだけれど、あまり食べなくなっていました。「どうしたの?葉奈。大丈夫?」と声をかけると「大丈夫。」と言うのだけれど。
 敬子の入院がとても長くなって、しかも何度か容態が変わり、いつまた急変するかも判らない。そんな状況になってしまって、「ママは今一生懸命頑張ってるよ。だからみんなで頑張ろうな。」と言っては見るものの、僕自身が気落ちしてしまったことを娘たちは敏感に感じ取ったのかも知れません。些細なことで叱ったりすることも増えて傷つけてしまったかも知れない。2000年のクリスマスイヴの日が最後で、彼女にも会っていませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 毎日病院に行き、彼女を見る度、色々なことが浮かんで来て、寂しさが募ることが多くなっていました。元気を出さなくちゃいけないと思うのですが、独りになった夜はなおさらでした。
 でもそれは、まだまだ小さい沙羅や葉奈の方がずっと大きいのでした。

at 22:54 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/電話の音。(抜粋)

 腫瘍から再び出血し、今後容態の急変の可能性が高まったと告げられてから、頭の膨れは確実に進んでいる感じでしたが、敬子の容態は安定していました。友人たちが言っていたように、外見からは変化は目立つことはなく、少し熱っぽい感じでしたが顔色も良く、呼吸も穏やかでした。
 しかし、僕はとても不安で落ち着かなくなっていました。彼女が倒れてからしばらくの間そうであったように、もし電話が鳴ったらと考えて電話の音がとても怖くなりました。電話が鳴る度、ドキッとして胸が高鳴り、どの電話もみな病院からのものであるように思えました。深夜、周りが静まり返っていると、電話が鳴っているように思えてしまうことさえありました。電話を取って違うことが判ると、本当にホッとしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 彼女に何度も話しかけ、覚悟を決めたと思いました。しっかり見守ろう、もし容態が急変しても気持ちを強く持って頑張ろう、そう決めたと。しかし、もうなす術はないのか。手術をすること以外に。やはり手術すべきだったのか。たとえ改善する望みは薄いとしても。悩み、迷い、心が揺れました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 祝日のその日は、気持ち良く晴れて暖かく、春の訪れを思わせました。熱いお湯に浸してきつく絞ったタオルで彼女の顔や手足を拭きました。特に左手を丹念に。「どうママ?気持ちいい?ちょっと汚れているみたいだからきれいにしようね。」と話しかけながら、硬縮の進んだその手を拭くために開こうとすると、とても強い力で閉じようとして来ました。
 僕の迷いを窘めるように。

at 22:15 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/優しい眼差し。(抜粋)

 頭の膨れは日々進んでいて、それはまるで大きな瘤のようになっていました。そこに力が加わらないように、頭を大きく左に向けて、ほぼ真横を向いていました。顔を拭いてあげようと思って傍にいきました。敬子の右の目に涙が溜まっていました。苦しいのかな?と思いました。でも少し感じが違っていました。開いていた両目を少し離れて見てみると、とても優しい眼差しをしているのでした。その目は動かず、一点を見つめているのですが、これまでの虚ろな感じではなくて、子どものような柔らかい光がありました。何故だろう?楽になりたいと訴えているのだろうか。それとも何か別のことが言いたいのだろうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 どんな途を選んでも、きっと迷う。最善の途が何かは誰も言えない。ただ最終的な決断は、彼女の意識が戻らない今、僕がしなければならない。決めても、すぐ揺れる。これまでそれを何度も何度も繰り返して来たのでした。
 「敬子。ママ。僕の選んだ途は間違っていたかな?どうかな?ごめんね。また迷ってしまったよ。もしかしてママにとても済まないことをしてしまったんじゃないかって思ってしまうんだ。」髪を梳かしながら、彼女に訊ねました。
 「一度、これが正しいと決めたら、誰が何と言おうと、それをやり通す。それがダダのやり方だったんじゃなかったの?そうして来たじゃない。私はこれまでそんなダダにずっとついて来たのよ。迷わないで。ダダが迷ったら私まで迷っちゃうわ。」
 彼女は優しい眼差しで僕を見つめて、そう言っているようでした。

at 21:57 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/人工呼吸器。(抜粋)

 「今後奥さんの容態が急変した場合にはすぐご連絡して来ていただくことになりますが、万が一、ご主人が仕事で出かけていたり、ご家族の方が集まるのが難しい場合などに、人工呼吸器によって延命するかどうかを考えておく必要があります。すぐ決めるというのは難しいと思いますが、奥さんのお父様、お母様とご相談しておいていただけますか。以前お母様とお話した時には、そっとしてあげたいとおっしゃっておられましたが。」
 病室に戻り、敬子を見ました。少し熱っぽく、両目をかっと見開いていました。「ママ。敬子。」と耳元で呼びかけました。目をまたたいて、僕の声が届いたように思えました。涙が出て来ました。しっかり見守ろうと決めて、もう彼女の前で涙を流すのは止めにしようと思いましたが、駄目でした。
 帰りしな、彼女の実家に電話しました。お母さんが出ました。中村先生から言われたことを伝えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「英雄さん、そんなに気を落とさないで。これがね敬子の運命、寿命なのよ。もしその時がやって来ても、もうこれ以上敬子が苦しむことをして欲しくないわ。英雄さんも一生懸命頑張ったわ。敬子のことも勿論だけど沙羅や葉奈のことをしっかり護ってあげて。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 家に戻りました。夕食を終えて一緒にお風呂に入りながら、娘たちには「ママの具合が少し悪くなった見たいなんだ。でもママは一生懸命頑張ってるよ。」と伝えました。そうとしか言えませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 お母さんと話したこともう一度考えました。やはり僕もその時が来ても、もうこれ以上延命を続けるのは止めたいと思いました。彼女を、彼女の生き方を尊重する。ただ延命治療に終始することは、それではない。少し前そう思いました。しかし今、そのことがより切実で避けることの出来ない問題になりました。楽にしてあげたいと思うことは残酷で、愛のない、思い遣りのないことではないのか。ずっとそんな迷いがありました。
 しかし、そんな迷いも、晴れて行くような気がしました。

at 21:32 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/2001年2月7日。(抜粋)

 朝から雨模様で、夕方からは冷たい雨になり、今にも雪になりそうな様子でした。久し振りに仕事に出かけた僕は、帰宅後沙羅が取り次いでくれた電話を受けました。午後2時を過ぎた頃。病院からでした。敬子の担当の看護婦さんがこう言いました。「奥さんの容態が変わりました。詳しくは中村先生からお話を差し上げます。今先生は手術中でして、午後6時から7時の間にお越しいただけますか?」「解りました。お伺いします。」電話を切った後、急に不安になりました。ここ2、3日、とても具合が悪そうに思えたこともあったし、頭の膨れがとても気にかかっていましたから。 
  午後6時過ぎ。手術を終えたばかりらしく、手術着のままの中村先生から説明を受けました、「奥さんの容態に変化が起こり、急遽断層写真を撮りました。再度腫瘍から出血があったようです。断層写真を見ると、前回の出血よりも大きいようです。手術した部分に骨が入っていなかったおかげで、脳圧の急激な上昇が緩和されたようですが、骨を埋める手術を行なっていれば、もしかすると命が危なかったかも知れません。水頭症の症状もかなり進んでいることに加えて、今回の出血もあり、今後は容態が急変する可能性がかなり高いと言わざるを得ません。この期間内でまた出血があるというのは極めて稀なケースです。少なくとも私が担当した中では初めてです。」
 余命は半年、どんなに手を尽くしても2年と告げられました。色々悩んだ末、彼女の「生きる力」を信じて見守ろうと決めました。しかし、またしても酷なことでした。
  「今後、どうやって髄液を抜いて行くのでしょうか?」僕は訊ねました。「今は内水頭症に変わっていますから、針を刺すと、直接脳ということになってしまいます。髄液を抜くならば水頭症の手術をすることになります。それであればもっと以前に手術を行なっていました。しかしご主人ともご相談した上で、手術は行なわないということでここまで来ましたし、これまで何度か髄液を抜いても奥さんの症状に大きな変化は見られませんでした。また仮にこれから腫瘍を取り除く手術を行なっても改善は期待出来ません。以前お話しましたように、それらの手術を行なわなかったことが、何も手を尽くさなかったということではないと思います。とても残念なことですが、この悪性度の腫瘍が出来てしまったことが、今の状況を招いているのです。」
 言葉が詰まりました。先生は、こう続けました。

at 17:04 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/移り行く季節。(抜粋)

 その日は良く晴れ、寒さも幾分緩んで、暦通り春の訪れを思わせました。敬子は熱も下がっていて、楽そうでした。久し振りに彼女の手足の爪を切り、髪を梳かしました。彼女は目を閉じ、呼吸も穏やかでした。また、膨らんだ部分にそっと触れて見ました。しかしそれまでの柔らかさはなく、先日中村先生に言われた通り、脳そのものが頭皮を隔ててすぐそこにあるのだという感じがしました。
  その時ふと疑問が湧きました。髄液が脳表に溜まる外水頭症であれば、皮下に針を刺して、定期的に抜き取ることで何とか膨れるのを抑えることが出来ていた。しかし、脳室に溜まる内水頭症に変わって来た今、日々溜まって行く、しかもより奥深くに入り込むようになった髄液をどうやって抜き取るのだろうかと。針を刺すといっても、ほぼ脳の中心にある脳室まで達するのは、相当に深い。そのこと自体が新たな問題に繋がることはないだろうか。また色々なことが巡りました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  夏の名残りがまだ十分に感じられた9月の終わりに彼女は倒れました。秋が過ぎ、いつもより寒さが厳しく感じられった冬もやがて終わり、もうそこまで春が近づいている。その間、彼女はずっと沈黙の闘いを続けて来ました。降りかかる困難を乗り越えて精一杯生きて来ました。でも次々と壁が立ちはだかる。彼女の沈黙の闘いは未だ報われていないのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  春が来てそして過ぎ行く、その時まで彼女は闘い続けることが出来るだろうか?初めてそんな思いが過ぎりました。半年長くても2年という余命宣告を受け、その半年まで2ヶ月を切っていました。しかし彼女の「生きる力」がそれを1日でも延ばしてくれると思っていました。でもそれだけを願うことが果たして彼女にためにいいことなのだろうか。それが僕が望むことなのだろうか。再びその問いが浮かんで来ました。
「十分頑張ったよ、敬子。だからもう楽になって。」本当はそう言ってあげたいのでした。

at 16:42 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/リハビリテーション。(抜粋)

 硬縮が進んで手足がこわばっているのを少しでも和らげるために、色々な治療と並行してリハビリテーションが続けられていました。面会の度に敬子の手や足をさすって、教えてもらったように時々伸ばしてあげたりしていましたが、左脚は特に緊張が高く、右脚に比べるとだいぶ太く、足首から先が内側に大きく曲がったままになっていました。左膝は曲げるのもかなり難しく伸びたまま緊張した状態になっていました。その日はたまたまリハビリのスタッフの方に会って話をしました。
 「最近、奥さんの容態に何か変化はありますか?」「大きな変化はありませんが、先生の話によると、水頭症が進んでいるようです。昨日はかなり熱があって顔中汗が吹き出ていました。」「そうですか。汗が出て来るのは奥さんが自力でなんとか体温調節しようとしている訳ですからむしろいいことではないかと思います。一時は私たちが見えているような感じもしましたが、今は少し停滞気味なのかも知れません。筋肉や関節もだいぶ硬くなっていますが、股関節はまだそんなに硬くならずに、動かすことも出来ますからオムツの交換などは大丈夫です。今はとにかく現状維持が目標です。あまり無理に動かしますと、筋肉の中に骨のような組織が出来る現象が起きてしまって、それが新たな痛みの原因になってしまうこともありますので。」
  リハビリの最中、彼女は痛みに顔をゆがめていました。後でタオルで手足を拭いてあげた時、足の裏をくすぐって見たら、指がピクリと動きました。意識は依然戻っていませんでしたが、痛いとかくすぐったいという反射的な感覚はちゃんとあるのです。脳という器官の不思議さを感じました。
  同時に、硬縮という症状は脳の障害による四肢の麻痺であると中村先生から説明を受けていましたが、今も徐々に進んでいるということは、やはり脳の障害が依然として意識の回復を阻んでいるのだとも思いました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  現状を維持する。リハビリのスタッフの方の言葉が浮かびました。今はそのことさえも非常に厳しい状況にあるのかと。

at 14:28 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/静かなる進行。(抜粋)

 1月の終わり。倒れてから4ヶ月が過ぎた頃、敬子の容態に微妙に変化が起きていました。それまでの何週間かは全体としては安定しているように見えました。髪を梳かしてあげた時、髄液が溜まって膨らんでいた部分にまたそっと触れて見ました。すると、それまでは明らかに水が溜まっている感じで柔らかかったのが、しこりのように少し硬く感じられたのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「この1ヶ月の間に、腫瘍はまた少し大きくなって来ています。進行の速さは特別に速いということはありません。このレベルの悪性度の腫瘍としては一般的だと思います。水頭症に関しては、ご主人の質問のように、変化が起きています。これまでは髄液が脳表に溜まる外水頭症でしたが、直近の断層写真を見ると、髄液が脳室に溜まる内水頭症に変わって来ています。そのために、脳表の方の髄液は減って来ていてえ、脳室に溜まった髄液の影響で脳室が大きくなり、脳が骨の入っていない部分に膨らんで来ています。心肺機能や肝臓、腎臓の機能も安定していますし、今の所、重大な合併症の兆候も見られませんが、腫瘍と水頭症に関しては確実に進行しています。それがこの1ヶ月間の変化です。今後はもしかすると目を開いている時間が徐々に少なくなって行くかも知れません。」
 断層写真はまさにその状態を映していました。予想していたことが現実になってしまいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 少し前に彼女がこの病気に選ばれたのは、耐える力があるかだということを聞いて、自分を落ち着かせ、重苦しい気分を換えようとしましたが、またしてもこの現実は辛く、酷なことでした。しかし、この僕にはやはり何もしてやれないのです。彼女が、残された時間を精一杯生き抜くことを傍に居て見守ってあげることしか。
  病室に戻りました。その日の彼女は、とても熱があって、汗が顔中に吹き出ていました。

at 14:00 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/新しいいのち。(抜粋)

 敬子には7歳下の妹がいます。恭子ちゃん、愛称コッコ。2001年1月25日。コッコに2番目の子どもが生まれました。男の子。数日後、匠(タクミ)くんと名付けられました。初めての子どもは女の子、綾音(アヤネ)ちゃん。
 「心配しないでよ。ちゃんとお世話してあげるから。」かなり気合いが入っていました。「どっちかな?」「きっとウチ見たいに女の子よ。」「どうして?」「オンナの勘ってやつよ。」「自分のことみたいに張り切ってるじゃない。」「そぉ?でも本当に楽しみなの。」「そうだな。沙羅も葉奈も可愛がるだろうな。ところでママ、どんな風に呼ばせるの?」「そうねぇ。ダダはダダでいいけど、両方におばあちゃんもいるしねぇ。どうしようか。」「ヤンババって恭子ちゃんが言っていたじゃない。」「ほんと、ヤンババって感じよね。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 新しいいのちの誕生を自分のことのように楽しみにしていた彼女を襲った突然の病。お世話するんだと意気込んでいたその願いは叶えるのがとても厳しくなりました。もしかすると、匠くんの誕生を知ることさえも難しい。
 「ママ、恭子ちゃんに子どもが生まれたってさ。ジージが昨日電話くれたよ。男の子だってさ。勘がはずれたじゃない。でも良かったね。楽しみにしてたもんな。」明くる日彼女にそう伝えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 前日は熱がだいぶ上がっていたらしく氷枕をいくつも抱えていましたが、それも落ち着いていました。
 きっと新しいいのちの誕生を喜んでいるんだ、会いたいだろうなと思いました。

at 13:40 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/穏やかな眠り。(抜粋)

 面会に行くと、敬子が目を閉じて静かに穏やかに眠っていることが、数日間続いていました。胸のあたりが上下に少しだけ動いて、浅いけれど呼吸もしっかりしていました。いつもなら「今日は、ママ。気分はどう?」と声をかけて、額に手をあてて熱の具合を見たり、身体をさすったり、手を握ったり、耳元でその日の出来事を話したり、彼女の好きな音楽をかけたりするのですが、本当に穏やかに眠っているので、ただ傍にいて、彼女のことを見ていることにしました。いつも通りノートに彼女の状態をメモしてから彼女の様子を描いたりもしました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 手術後こんなに静かに穏やかに眠っている彼女を見るのは初めてでした。啖が引き切れずに苦しそうにもがいたり、硬縮が進んでこわばった両手を小刻みに動かしたり、両目を大きく見開いて一点を食い入るように見つめていたり、何かしら病気と闘っていることを知らせる動きがありました。しかしその時は熱もそんなに高くはない感じでそれらも目立たず、幼稚園も小学校も休みで久し振りに寝坊が出来る朝に気持ち良さげに眠っている彼女のようでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 命が危ぶまれるということで緊急に手術を行ない、その後も色々なことが彼女に起こって、傍にいるだけでその苦しさや辛さがひしひしと伝わって来る時期がありました。しかしそこから「生きる力」を精一杯振り絞って盛り返し、ここまで容態が安定して来た。改めて彼女の強さを見る思いがしました。
 出来ることなら、楽しいことをいっぱい想い出しながら、穏やかに眠る時間がもっともっと増えればいい、そう思いました。

at 13:22 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/自信と信念。(抜粋)

 ふと思いました。敬子が楽になれないのは、僕たちが、いや僕のことが心配だからなのではと。彼女が倒れてからは、ずっと彼女のことばかりが気にかかって、無我夢中で毎日を過ごして来ました。しかし4ヶ月になろうとする頃、僕自身についても気になることがありました。護ってやらなければと頭では解っているはずが、些細なことが元で沙羅や葉奈を叱ってしまうことが増えていました。身体の調子も今ひとつで、何よりやらなければならないことはどんどん山積みになって行くことを感じながら、なかなか手がつかない状態でいることも増えていました。頭は冴えているはずなのに肝腎の身体が追いついて行かない、そんな感じでした。ストレスだったでしょうか。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 これだけ色々なみなさんに支えられている。だのに、「今日何をしたか、明日何をするか。」を考えるほど、元気を出そうと思うほど、結局出来ず終いに1日が過ぎて自己嫌悪に陥ってしまうのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 独りになると時々、このまま駄目になってしまうのか。そんな漠然とした不安にも襲われました。彼女がいなければ何も出来ない。それだけのちっぽけな人間だったのか。
 面会に行き、彼女を見ました。熱はありましたが、とても穏やかに眠っていました。
 「ごめんね、ママ。どうしても元気が出ないよ。沙羅や葉奈のこともつまらないことで叱ってしまう。どうしたらいい?このまま駄目になってしまうのかな。」答えはありません。でもこう言っている気がしました。
 「どうしたの?ダダらしくないわね。自信を持って生きる。信念を貫く。いつもそう言っていたじゃないの。忘れちゃったの?早く思い出して。その時のことを。」

at 12:06 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/四人部屋。(抜粋)

 新世紀に入って10日ほどして、敬子は個室から四人部屋に移りました。集中治療室にいた頃には、中村先生から「一般病棟に移っても、個室管理になると思います。」と言われていましたから驚きました。彼女の容態が安定しているからなのか、それとも別な理由があるのか、少し気にかかりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 ただ僕にとって良かったのではないかと思えることもありました。それは彼女と同じような病と闘っている方がおられるということを知るいい機会になったからでした。まじまじと様子を窺ったわけではありませんが、聞こえてくる色々なやりとりからその様子が少し解りました。年齢も様々でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 同時にとても羨ましいとも思いました。患者さんにとって病気と闘うのは、確かにとても辛く、苦しい。でも同室のみなさんはそれを自分で伝えることが出来る。声に出来なくても、眼や身体の動きで。色々なやりとりを耳にしながら、彼女を見ました。薄く両目を開けていました。しかし、彼女の意識はまだ戻って来ていませんでした。本当の気持ちを直接聞けない。それを想像しながら、話しかけることしか出来ないのでした。
 ゆっくり辛抱強く、彼女が長い眠りから醒めるのを待とう、信じよう。そうしよう、と決めました。しかし、手術後すでに3ヶ月を過ぎ、彼女に残された時間は日一日限られて行く。そのことがまた頭に浮かんで来て、切なくなりました。
 病室の中の、色々な声や音が、驚くほど鮮明に聞こえて来るのでした。
  

at 11:50 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/勇気と元気。(抜粋)

 新世紀元旦。たくさんの年賀状が届きました。一枚一枚読みながら、どうすべきか迷いました。まだ敬子が元気だった頃は、毎年家族の近況とその1年の目標を決めて、沙羅と葉奈がコンピュータで絵を描いて、僕が文章を書いて、彼女がそれらをまとめて小さな写真を添えて。すべて手作りの年賀状の出来上がり。年末年始家族でワイワイガヤガヤ。賑やかな年賀状作りでした。でも今回はそれが出来ない。年賀状を送るという気分にもなれませんでた。
 たくさんの年賀状の中の一枚に、ここ数年一緒に仕事をさせてもらっていて、個人的には草野球チームのエースとして頑張ってくれたリクルートの大原君からのものがありました。寡黙で多くを語らずのタイプの彼がこう書いていました。「柴田さんへ。“勇気・元気”を大切に。今後ともよろしくお願い致します。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 言うのはとても簡単だけれど、実際にそうするのはとても難しいことは色々あります。「勇気と元気」もそう。自分では勇気も元気もあると思っていました。でも本当は思うほどではなかった。ちょっとしたことにすぐに落ち込む、弱くて脆い人間であることが良く解りました。
 これからの目標を大原君が書いてくれた「勇気と元気」にすることに決めました。気持ちがひどく落ち込んだり、また、もし彼女の容態に変化が起きて、気持ちが大きく揺さぶられることがあった時にはその言葉を思い出して頑張ろうと。勇気を出して彼女を見守ろうと。娘たちをそして僕たちの家をしっかり護ろうと。
 すっかり遅れてしまったけれど、年賀状をいただいたみなさんに、お礼を兼ねて、正直に彼女に起こったことを、自分たちのことをお伝えしよう、と決めました。
   

at 11:32 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/愛するということ。(抜粋)

 敬子の傍にいて、何度も「敬子、愛しているよ。」と言うようになりました。前よりずっと素直に。結婚してから15年以上が過ぎて、彼女といること、沙羅や葉奈といることがごく当たり前で、ふとした瞬間にとても大切だと思うことはあっても、改めて深く考えることはありませんでした。「愛している。」昔は少し照れ臭くて言えないということもあったけれど、一体どういうことなのだろうか。偶然こんなことを歌った歌を耳にしました。
  「愛は煙のようなもの  
   消えてしまうまで、はっきりとは判らない
   愛のことを本当に知ることは出来ないわ
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   愛はお金のようなもの 
   それがなければ生きては行けないけれど  
   手元に来ては、また行ってしまう
   愛のことを本当に知ることは出来ないわ
   ・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   愛はあてにならないもの  
   胸をときめかせるのに、 すぐ苦しい気分にさせる
   愛のことを本当に知ることは出来ないわ」
 彼女を幸せにしよう、彼女や娘たちに苦労をさせないようにしよう。そう思ってただがむしゃらに突っ走って来ました。それが愛することだと思っていました。でもそれは本当に愛することだったのだろうか。愛するということを、特別に話すことはありませんでした。でも皮肉なことに、彼女が余命宣告を受けるほどの重い病に倒れ、意識も依然戻らず話すことも出来ない状況になって、今までで一番彼女のことを考え、想っている。
 愛するということは本当にこの歌のように辛く儚く、本当に知ることは出来ないものなのだろうか。
 僕には良く解らなくなっていました。

at 10:58 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/爪。(抜粋)

  大晦日。敬子の爪を切りました。それまで許可もなく爪を切ったりしていいものか迷っていましたが、結局病院の確認を取らずに切ることにしました。爪を切ろうと、硬縮が進んでこわばった彼女の左手の親指を伸ばそうとした時のことでした。そう見えただけなのかも知れませんが、彼女が痛みに顔をゆがめたのでした。驚きました。と同時に彼女はちゃんと僕のことが判っていると思いました。確かに気管切開をしたために声にすることは出来ないし、その目で僕を追うこともない。しかしずっとその奥で何かを確実に訴えているのだと。
  手足の爪を注意深く切って、丹念にヤスリをかけました。爪は乾き切っていて、切るとパチンと音を立てました。元気な頃の彼女の爪はどんなだったかを思い出そうとしたのですが、出来ませんでした。そう言えば、彼女の爪を切ったのは沙羅がまだお腹にいた時以来、久し振りのことでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  その日の彼女はまた熱が上がっているせいなのか、とても静かで、目を閉じていることが多かったので、話しかけるのを止めにして、傍でしばらく彼女を見ていました。彼女が元気だった頃のことが色々浮かんで来ました。するとすぐ、今の彼女のことも浮かんで来ました。
  彼女が倒れてから3ヶ月を過ぎ、「もういい加減、現実を受け容れなければ毎日のことが覚束ない。お前がしっかりしなくちゃダメじゃないか。」そう問いかける自分がいつもいました。でも頭では解っているつもりなのですが、依然として「これは悪い夢であって現実ではないのだ。」と思うことが何度となくありました。色々な方が助けてくれて、日々の生活は徐々に落ち着いて来ていましたが、夜、娘たちが眠った後独りになると、急にポカンとしてしまって、涙が溢れて来てしまうのでした。
  何か新しいことをまた2人で始めたいね、と楽しみにしていた新しい世紀が、数時間後に迫っていました。

at 10:42 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/独りぼっちのクリスマス。(抜粋)

 2000年クリスマス。敬子が倒れてから3ヶ月。いつもならクリスマスには、数日前からツリーを出してみんなで飾り付けをして、イヴには、「沙羅も葉奈もサンタさんを信じてる。羨ましいわ。」と言いながら、お願いしていたサンタさんからのプレゼントを、娘たちを起こさないようにそっと枕元に置いて、僕たちもお互いのプレゼントを交換しながら、お酒を酌み交わす。当日は家族みんなでケーキを焼いて、チキンの丸焼きやサラダをこしらえて、クリスマスソングを歌ってワイワイガヤガヤ。時にはお友だちの家族も集まって。そんな平凡だけれどとても楽しい。家族で過ごす大切な日でした。
  イヴの日。ここ数年ずっと聴きに行っていた「ロバの音楽座」のクリスマスコンサートに、沙羅のお友だちの朋子ちゃんを連れて立川まで行って来ました。民族楽器やお手製の楽器で、温かくて優しい音を奏でる素晴らしいコンサートです。一度聴いてすっかりファンになりました。今年も彼女は楽しみにしていましたから、とても残念でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  クリスマスの少し前、中村先生から最近の状態のことを聞きました。「ここ数日、一時下がっていた炎症反応の数値が上がって来ています。また最近のMRIの断層写真を見ますと、若干ですが、腫瘍が大きくなって来ているようです。髄液は頻繁に抜き取るようにしていますが、どうしても溜まってしまいます。明らかに水頭症の症状ですが、この状態ですと、手術を行なっても改善は見込めないのではないかと思います。」一般的な症例としては手術後1ヶ月から3ヶ月時点での状態がそのまま続くことが多いという先生の言葉も思い出しました。
  結婚してから、彼女が過ごす初めての独りぼっちのクリスマスになってしまいました。病室はどうしても殺風景になり勝ちなので、少しでも寂しさが紛れればと思って、友だちがお見舞いに持って来てくれたクリスマスの歌を流しました。そしてコンサートに出かける前に用意しておいた小さな置物も持って行きました。
  それはクリスマスツリーをみんなで飾り付ける時、彼女がとても気に入っていると言っていた、陶器で出来たユーモラスなサンタクロースでした。

at 10:22 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/髄液。(抜粋)

  水頭症の症状が徐々に進行していました。手術をした頭部の皮下に水(髄液)が溜まり、膨らんでいました。定期的に針を刺して抜き取るようにしていましたが、どんどん溜まり、常に膨らんでいるような状態でした。以前自分で色々調べた時に、髄液は成人の場合1日に約450ml産出されると書いてありましたが、まさにその通りでした。「髄液を抜いても、奥さんの症状に大きな変化は見られないようです。ですから仮に水頭症の手術を行なったとしても、容態の回復は非常に難しいと思います。」 中村先生にはそう言われていました。しかし、頭の膨れあがった敬子を見るととても辛くなりました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  色々な厳しい状況を乗り越えて、彼女の容態は安定して来ていました。両目を開けるところまで来ていましたが、それが意識の回復とは言えず、依然さまざまな障害がたちはだかっていました。
  毎日面会に行く度に、その日の彼女の様子を書き留めていましたが、熱が上がったり、下がったり全体としては微熱が続いていること、啖が溜まってとても苦しそうに身体を動かすことがあること、そして水が溜まって膨らんでしまう頭部以外は、日々大きな変化はなく、大半はとても静かで穏やかな印象で、呼吸も浅いけれどしっかりしていて、家のベッドで僕の隣りで寝息を立てて眠っている時と同じようでした。両目を開けるようになってから一定のリズムも出て来て、目を開けている時と眠って居る時とが交互にキチンとやって来るようでした。
  彼女の脳に対するダメージはかなり大きい。意識の回復を障害する要因も多い。しかし、そんな状態にあってもある種の規則性を持って機能している。とても不思議な感じがしました。
  と同時に彼女の「生きる力」の強さを改めて感じました。

at 00:17 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

2005年09月08日

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/10年日記。(抜粋)

  たとえ妻でも、日記を読むのは良くないと思いました。でもどうしても敬子が僕との暮らしをどう考えていたのかが知りたくて、数年前、「日記をつけようと思うんだ。」と言う彼女の言葉を思い出して、探して見ました。「1994年ー2004年」の10年日記が、キッチンに、色々な本と一緒になっていました。僕に関することがずいぶん書かれていました。

at 12:01 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/重い現実。(抜粋)

 敬子がいない毎日は、生活のリズムもままならず、やること全てが行き当たりばったりの点の状態のままで、1本の線にならず、気持ちの上でもとても不安定だったように思います。と同時にもう一つ、医療費という重い現実もありました。少しでも可能性があれば、彼女のために出来ることは何でもやりたいと思いました。しかし、彼女の治療に要する医療費の負担はとても大きいものでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 開頭手術は勿論、「低体温法」の治療のように、どこの病院でも受けられるという訳ではない特別な治療法、彼女の容態を安定させるために使われた数々の薬剤、そして主治医中村先生を始めとして、常に彼女を見守ってくれる多くの医療スタッフの方たちの努力。それらを考えれば当たり前なのかも知れませんが。
 彼女が倒れてしまったことは辛く、悲しいことでした。しかも、出来る限りの手を尽くして手術や治療に当たってもらったものの、その現実は厳しいものとなりました。しかし、彼女が自らの意志でそれを受け容れ、手術を行なったこと、そして数々の高度な治療を受けることが出来たことは彼女にとっても僕たちにとっても良かったのかも知れないと思うようになりました。確かに負担は大きい。しかし、もしかすると手術や治療さえ受ける時間もなく命を落とされてしまう方も多いかも知れない。或いは、負担が大きいがゆえに高度医療を受け続けることが非常に厳しいという状況にある方も、もしかするといるかも知れない。色々なことが浮かんで来ました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 彼女は依然として何も語りません。しかし身を持って、僕たちに色々なことを教えてくれているのだと思いました。
 ただ、僕にはそれに応えることが出来ているかは、自信がありませんでした。

at 11:43 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/生きる力。(抜粋)

 敬子の脳に再びメスを入れることはしない。肉体的な痛みや副作用を伴う放射線治療や抗がん剤治療も行なわない。僕はそう決めました。水頭症の影響で手術した部分の皮下に水(髄液)が頻繁に溜まり膨れるようになっていましたが、それは針を刺して抜き取るようにしていました。中村先生によれば、ここの所は状態も安定していて、抗生剤の投与も止めているとのことでした。これまで定期的に彼女の血を採り血液培養によって検査を行なっていました。場合によっては重篤な状態に陥り、死に至ることもあるという敗血症や菌血症を起こさないように注意するためでした。「今の所、その点での異常は認められません。肝機能や腎機能についても、正常値よりは高めのものもありますが、危険な状態ではありません。血液を調べた限りでは奥さんの状態は安定しています。一応検査結果のデータをお渡ししておきます。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・  
  データが全てではないと思います。事実、目の前にいる彼女は、両目を開けるようになったものの、意識が戻ったとは言い難く、硬縮などの麻痺の症状も徐々に進んでいて、相変わらず微熱もありました。安定しているとはいえ、なかなか厳しい状況でした。しかし、彼女は徐々に盛り返して来ているとさえ思えるのでした。
 彼女の中にある「生きる力。」きっとそれが原動力になっているのだと思いました。
 彼女は出来る限りの力を振り絞って日々闘っている。もうこれ以上何を望むことが出来るだろう。
 明くる日、僕は彼女にまた、「ゆっくりね、敬子。ママ。」と声をかけました。

at 09:34 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/「ゆっくりね。」(抜粋)

 僕は初めて、「ゆっくりね、敬子。ママ。」と声をかけることが出来ました。彼女の肩に触れて、また涙が出て来ました。でも今までで一番優しい気持ちで接することが出来たように思えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 決してあきらめない、望みを捨てないという気持ちは勿論ありました。しかし、それ以上に、この状態がずっと続く、それが変え難い現実なら、彼女の痛みや苦しみを和らげてあげたい、そんな気持ちが強くなっていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「ゆっくりね、敬子。ママ。」と声をかけることが出来てから、彼女を見る目がとても穏やかで優しくなって来たようにも思えました。少しずつ覚悟が出来て来たのかもしれません。いつまた彼女の容態が急変するかもしれない。でも彼女は十分に頑張っている。闘っている。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 彼女が倒れてからの2ヶ月はあっという間でした。こんなに鮮烈な日々はそれまで体験したことがありません。なんという皮肉だろうか。彼女が倒れ、意識を失い、言葉や反応を失った今になって、一番彼女のこと考えるなんて。
 彼女と一緒に過ごした日々のことが毎日心に浮かんで来ました。彼女と一緒に行った色々な場所の風景が浮かんで来ました。その時どんなことを話しただろうか?どんなことを思っただろうか?次々に頭を巡りました。僕は思い出せる限りのことを書き留めるようになりました。
 そしてその度に、彼女はとても素晴らしい女性だ、この僕にはもったいないぐらい、と思うのでした。

at 09:18 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/意識障害。(抜粋)

 敬子が両目を開けるようになってから、僕は位置を少しずつ変えながら彼女に話しかけて見ました。でも彼女の目は僕を追いかけては来ません。「意識はたぶんあるのだと思います。しかし、それがさまざまな要因で障害されているのです。」中村先生はそう言います。でも本当に意識があるかどうかを確かめる術はありません。好きな音楽を聴かせてあげれば回復を助けるかもしれないという看護婦さんの奨めもあって、病室にCDプレーヤーを持って行って、彼女の好きな「Will You Love Me Tomorrow?」や「You've Got A friend」を聴かせたりしました。彼女は、時折瞼を閉じたりすることがあって本当に聴こえているのかもしれないと思いました。ただ気管切開をしたので、それを声にすることが出来ないだけだと。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 意識の戻らない日々が続いて、僕の気持ちにも変化が起きていました。毎日面会に行く度に、「頑張って、敬子!」「しっかり、ママ!」と声をかけていました。でも彼女は十分に頑張っている。考える以上に過酷な闘いを続けている。そんな彼女にもっと頑張れと言うのは、彼女はそれこそ辛いのではないかと思うようになりました。ずっと考え続けていた、「敬子だったらどうするか?」という想いが過ぎりました。きっと彼女は、「ゆっくりね、ダダ。身体を休めて。ちゃんと待ってるからね。」と言ってくれるだろうと。そしてその言葉通り、辛抱強く待っていてくれるだろうと。
 目を大きく見開いていた彼女が一瞬瞼を閉じました。僕の想いを解ってくれたかもしれないと思いました。
 僕はとても愛おしくなって彼女の額にキスしました。

at 08:59 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/2000年11月22日。(抜粋)

 敬子の41回目の誕生日でした。彼女と知り合ってから一番切ない誕生日になってしまいました。ここ7、8年は家族や親しい人たちの誕生日には必ず自分たちでケーキを焼いて、お祝いするようになっていましたが、彼女がいないと分量も手順も解らず、今回は果たせませんでした。彼女だったらきっと、僕が入院していたとしても、みんなを元気づけるためにケーキを焼いただろうと思ったのですが。
 前の日、久し振りにお母さんと病院に行きました。帰りしな、お母さんが「残念だけれど、これが敬子の寿命なのよ。」とポツリと言いました。そう言うことで、きっと彼女と同じように無念さや、運命の残酷さを無理矢理納得してしまいたいようでした。お母さんの気持ちが少し解りました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 本当に僕たちはこれからだったのです。沙羅や葉奈も前ほど手がかからなくなって来た。2人で始めた会社も色々あったけれどどうにかやって来れて会社らしくなって来た。結婚して16年目。これまた色々あったけれどやっと家族という実感が湧いて来て、充実感もあった。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 娘たちを預けて、また2人に戻って旅でもしようか。人生3度家を建てないと本当に満足の行くような家は出来ないらしいからまた頑張ろうか?無理かな?大丈夫よきっと。そう言えば、日本語教師になるって言ってた話、あれ途中じゃない?そうね。でも前よりずっと講座数が増えちゃったような話だし、大丈夫かしら?紙漉き職人になるっていうあの話は?あきらめた訳じゃないわ!男の子もいたら、沙羅や葉奈はきっと可愛がるよ。先生に相談して頑張って見ようか?本当?また女の子だったら?
 病院からの帰り途、最近彼女と話したことが次々と浮かんで来ました。
 思わず「敬子!」と叫んでしまいました。

at 08:38 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/見開かれた目。(抜粋)

 その日は日曜日でした。沙羅のピアノの発表会があって、いつもより面会に行くのが遅れてしまい、5時を回っていました。「ごめんね、敬子。ピアノの発表会で、沙羅頑張ったよ。最初は少し緊張してた見たいだけど、上手だった。前よりずっときれいな音が出せるようになった。」僕はいつものように、その日の出来事を彼女に話しかけました。その時彼女の変化に気づきました。
 彼女が両目を開けたのでした。わずかな時間でしたが二度。それまで左目だけは開けるようになっていましたが、両目を開けたのを見たのはその日が初めてでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 意識が戻らず、目を閉じたままだった頃は、1日でも早く目を開けて欲しいと願っていました。なのに、彼女の大きく見開かれた両目を見ると、今度はすごく切なく、悲しくなって来て、ずっと彼女の目を見ていることが出来ないのです。ずっと望んでいたはずなのに何故?
 彼女の目は動くことはありませんが、僕には2つの想いが浮かんでいました。ひとつは、彼女が「もっともっと生きたい。だから頑張ってるのよ。」と訴えているんだという想い。そしてもうひとつは、「とても辛い。すごく苦しい。」と病気と闘う苦しさを訴えているんだという想い。それらが交錯していました。
 その両方が彼女の中にある、と思いました。その両方と彼女は闘っているのだと。
 彼女を見ていて、涙が溢れて来ました。
 でも僕の中に不思議な気持ちの変化が起きていました。

at 08:25 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/海の向こうから。(抜粋)

 敬子の容態を色々な人たちが心配してくれました。その一人にロサンゼルスに住むボブさんがいました。数年前、家族4人でハワイのマウイ島に旅した時、レストランで偶然知り合った方です。パートナーのペニーと一緒でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 彼女が病に倒れたことを伝えました。本当に驚いた様子でした。「何か力になれることはないか?」「私はあまり信心深い方ではないが、教会にお祈りに行こうと思っている。」本当に偶然に知り合ったのに、自分のことのように心配してくれました。ペニーもその頃具合があまり良くなくて、そのこともとても気がかりだったはずなのに。倒れて1ヶ月が過ぎた頃、彼からこんなメールが届きました。
 「英雄、その後敬子の様子はどう?敬子が目を醒まして、容態が良くなることを願い、祈っているよ。・・・難しいとは思うけれど、ほんの少しでいいから、混乱した頭を整理するために、自分の時間を持って見てはどうだろうか?私が言うのは簡単だけれど、英雄に今一番必要なことだし、敬子もそれを望んでいるよ。・・・」
 彼の言う通りだったかも知れません。彼女が倒れて、ただうろたえるばかりで、余裕もなく、考えるのは彼女のことばかりでしたから。でも彼女は本当にそう望んでいるだろうか、その時はそうも思いました。一生懸命病気と闘う彼女に、僕はただ傍にいるだけしかしてやれない。そんな時に自分だけの時間を持つ、それは許されることなのかと、とても迷いました。でも、そうしようと決めました。
 明くる日、僕は彼との約束通り、彼女にメッセージを伝えました。
 「元気になって、敬子。私たちはいつも敬子のことを想っているよ。愛を込めて。ボブ&ペニー。」

at 01:16 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/「敬子だったら、どうするか?」(抜粋)

 緊急手術後、心配されていた脳圧の上昇についてはコントロールされていて、比較的安定していました。しかし肺炎などの合併症や脳室に水(髄液)が溜まる水頭症などに対応した治療の必要があることを中村先生から伝えられていました。
  依然意識が戻らないままでいる彼女を見て、その頃ずっとあることが頭に浮かんで消えませんでした。それは「敬子だったら、どうするか?」ということでした。もし今度のことが、この僕に起きて、同じ容態になったら、彼女はどうするだろうか?と。そのことを繰り返し繰り返し考えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 再び脳にメスを入れる。再手術を彼女は望むだろうか?僕はそう考えました。なかなか答えが出ませんでした。
 「意識がずっと戻らないままで、ただ生きているというだけなら、敬子はちっとも嬉しくないだろうし、意識が戻ったとしても、自分の状態が判ったらきっと悲しむわ。きっと今は自分が良くなったわと思って眠っているのよ。出来ることなら、もうこのままそっとしてあげたいの。」お母さんの言葉を思い出しました。そして僕の気持ちもお母さんと同じだと思いました。
 「原因が良く判らないのなら気持ちが晴れない。もし手術して原因が判って、そして元気になれるんだったら、私手術を受ける。」彼女はそう言って手術することを受け容れました。
 僕はこんな気丈な彼女ならば、きっと「再手術はお断りします。」と言うだろうと思いました。

at 01:04 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/「敬子だったら、どうするか?」(抜粋)

 緊急手術後、心配されていた脳圧の上昇についてはコントロールされていて、比較的安定していました。しかし肺炎などの合併症や脳室に水(髄液)が溜まる水頭症などに対応した治療の必要があることを中村先生から伝えられていました。
  依然意識が戻らないままでいる彼女を見て、その頃ずっとあることが頭に浮かんで消えませんでした。それは「敬子だったら、どうするか?」ということでした。もし今度のことが、この僕に起きて、同じ容態になったら、彼女はどうするだろうか?と。そのことを繰り返し繰り返し考えました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 再び脳にメスを入れる。再手術を彼女は望むだろうか?僕はそう考えました。なかなか答えが出ませんでした。
 「意識がずっと戻らないままで、ただ生きているというだけなら、敬子はちっとも嬉しくないだろうし、意識が戻ったとしても、自分の状態が判ったらきっと悲しむわ。きっと今は自分が良くなったわと思って眠っているのよ。出来ることなら、もうこのままそっとしてあげたいの。」お母さんの言葉を思い出しました。そして僕の気持ちもお母さんと同じだと思いました。
 「原因が良く判らないのなら気持ちが晴れない。もし手術して原因が判って、そして元気になれるんだったら、私手術を受ける。」彼女はそう言って手術することを受け容れました。
 僕はこんな気丈な彼女ならば、きっと「再手術はお断りします。」と言うだろうと思いました。

at 01:04 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/硬縮(抜粋)

  敬子が倒れてから1ヶ月以上が過ぎていました。脳の状態はどうにか安定していましたが、また新たな変化が彼女の身体に起きて来ていました。それは「硬縮」と呼ばれる、脳の障害が大きく関わっている四肢の麻痺の症状でした。特に左腕から左手にかけての麻痺が最も強く、何かを小脇に抱えているような感じに曲がっていて、手首から先がまた大きく曲がり、人差し指は伸びたままになっていました。中村先生からも手術後考えられることのひとつと伝えられていた機能障害でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  痛みや、色々な治療に耐え闘っていることを、彼女は言葉にすることが出来ない。でもそのことを身体をよじらせたり、伸ばした腕を強く曲げ返すことで訴えている。それ以外に意識が戻らないままでいる彼女と気持ちを通じ合わせる方法がないのです。
  硬縮は徐々に進んでいました。何日かおきに、汚れた浴衣やタオルを持って帰って、それを洗ってまた持って行くですが、「この頃、よく浴衣が破れたり、ほつれたりしているのよ。たぶん着替えさせる時にそうなってしまうのかもしれないわね。きっと着替えるのが大変なのね。だからそこを縫い直してお父さんに持って行ってもらっているの。」お母さんがそう言いました。
  言われるまで気がつきませんでした。僕が浴衣を洗って持って行くのは大変だということで、代わりに実家でお母さんが洗濯をして、お父さんが病院に持って行ってくれたのです。
  意識の戻らない彼女に降りかかる新たな障害。彼女の闘いはますます厳しくなる。
  しかし、この僕に出来ることは、やはり彼女の傍で見守ってあげること以外に何もないのでした。

at 00:46 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

2005年09月07日

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/微熱。(抜粋)

 手術後、敬子の容態の安定にとって重要なことは、体温の上昇を抑えるということでした。熱が上がることで、脳圧に影響を及ぼし、それが容態の急変に繋がる恐れがあるからでした。そこで最初は「低体温法」という治療が行なわれていました。これは「ブランケット」と呼ばれるシート(その中を水が流れる仕組みになっている)で、彼女の身体をサンドイッチするような形で上下から冷やし、体温の上昇を抑えるというものでした。集中治療室に入っている時はずっとこの治療が行なわれ、効果を発揮していました。心配されたいた脳圧の上昇はコントロールされ、徐々に安定して行きました。
   しかし、その後一般病棟に移ってからも微熱は続き、なかなか熱が下がり切らない状態でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「浴衣がすごく湿っていることがあるの。きっとたくさん汗をかいているのね。」とお母さんは言います。面会の時に彼女の手や額に触れると、とても熱っぽいことがあり、確かに汗をかいていました。背中や脇の下に氷枕を抱えて、体温が上がらないようにして、それでも下がらない時は座薬で抑える、そんな治療が行なわれていました。
  しかし微熱は、彼女が精一杯力を振り絞って闘っていることの証でもあるように思えました。

at 22:27 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/微熱。(抜粋)

 手術後、敬子の容態の安定にとって重要なことは、体温の上昇を抑えるということでした。熱が上がることで、脳圧に影響を及ぼし、それが容態の急変に繋がる恐れがあるからでした。そこで最初は「低体温法」という治療が行なわれていました。これは「ブランケット」と呼ばれるシート(その中を水が流れる仕組みになっている)で、彼女の身体をサンドイッチするような形で上下から冷やし、体温の上昇を抑えるというものでした。集中治療室に入っている時はずっとこの治療が行なわれ、効果を発揮していました。心配されたいた脳圧の上昇はコントロールされ、徐々に安定して行きました。
   しかし、その後一般病棟に移ってからも微熱は続き、なかなか熱が下がり切らない状態でした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「浴衣がすごく湿っていることがあるの。きっとたくさん汗をかいているのね。」とお母さんは言います。面会の時に彼女の手や額に触れると、とても熱っぽいことがあり、確かに汗をかいていました。背中や脇の下に氷枕を抱えて、体温が上がらないようにして、それでも下がらない時は座薬で抑える、そんな治療が行なわれていました。
  しかし微熱は、彼女が精一杯力を振り絞って闘っていることの証でもあるように思えました。

at 22:27 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/気管切開。(抜粋)

 緊急手術後、意識が戻らず一進一退を繰り返していた敬子ですが、辛そうだなと感じていたのは、啖を自力で引き切れずに溜まってしまい、時々苦しそうに身体を震わせることが多くなっていることでした。いびきのように聞こえていたのは実は大量の啖が溜まり、それが音を立てているのでした。
  「奥さんの容態は、現在は重篤な状態からは脱していますが、手術後は合併症に気をつけなくてはなりません。その中で最も発症しやすいのが肺炎です。現在重大な肺炎というわけではありませんが、今後注意深く見守って行く必要があります。」中村先生からはそう言われていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  しかし、気管切開をすると、残念なことに管が入っている間は声を失うという問題もありました。その後手術の影響が取れて容態が安定し、瞼を動かしたり、足を動かしたり少しずつ反応が出て来るようになってからは、何かを話したいのではないかと思うことが何度もありましたが、彼女はそれを声にすることが出来ないのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  気管切開後、2時間おきに啖を取りに看護婦さんが来てくれるようになりました。意識は依然戻ってはいないのですが、痛みに対する反応はあって、その時は身体を震わせます。その様子を見るのがとても辛く、特に両目を開けるようになってからは、苦しさを僕に向かって訴えているようで、楽にしてあげたいと思うようになりました。
  啖を取ってもらってしばらくは、楽になったようで、かすかな寝息を立てて眠っているように穏やかに呼吸しています。でも両目は大きく見開かれ、「ああ、しんどい。」とでも言いたげです。
  穏やかな呼吸のリズムと大きくかっと見開かれた目が、僕の胸を締めつけるのでした。

at 21:31 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/気管切開。(抜粋)

 緊急手術後、意識が戻らず一進一退を繰り返していた敬子ですが、辛そうだなと感じていたのは、啖を自力で引き切れずに溜まってしまい、時々苦しそうに身体を震わせることが多くなっていることでした。いびきのように聞こえていたのは実は大量の啖が溜まり、それが音を立てているのでした。
  「奥さんの容態は、現在は重篤な状態からは脱していますが、手術後は合併症に気をつけなくてはなりません。その中で最も発症しやすいのが肺炎です。現在重大な肺炎というわけではありませんが、今後注意深く見守って行く必要があります。」中村先生からはそう言われていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  しかし、気管切開をすると、残念なことに管が入っている間は声を失うという問題もありました。その後手術の影響が取れて容態が安定し、瞼を動かしたり、足を動かしたり少しずつ反応が出て来るようになってからは、何かを話したいのではないかと思うことが何度もありましたが、彼女はそれを声にすることが出来ないのでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  気管切開後、2時間おきに啖を取りに看護婦さんが来てくれるようになりました。意識は依然戻ってはいないのですが、痛みに対する反応はあって、その時は身体を震わせます。その様子を見るのがとても辛く、特に両目を開けるようになってからは、苦しさを僕に向かって訴えているようで、楽にしてあげたいと思うようになりました。
  啖を取ってもらってしばらくは、楽になったようで、かすかな寝息を立てて眠っているように穏やかに呼吸しています。でも両目は大きく見開かれ、「ああ、しんどい。」とでも言いたげです。
  穏やかな呼吸のリズムと大きくかっと見開かれた目が、僕の胸を締めつけるのでした。

at 21:31 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/最善の途。(抜粋)

  「何が最善の途かは、私に断言することは出来ません。ただ個人的には、やれると思うことは何でもやるということが最善の途であるとは思いません。事実、何でもやって見た後で、やはりやるべきではなかったと考えた方もおられます。勿論、かなりの効果が期待出来ると考えた場合は、私たちの方からも治療をお奨めしています。ただ奥さんの場合、病理組織診断の結果もかなり厳しく、現在の容態で放射線治療や抗がん剤治療を行なっても、劇的な回復は難しいと思います。ただそれらを行なわないからといって、何もやらない、やるべきことをやらないということではないと思います。ですからご主人がそのことで悔いることはないと思います。
  少し迷いが晴れました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   「何が最善の途か。」これについては色々な考え方はあると思います。中村先生の話を聞いて、気持ちが落ち着いたとはいえ、その後もずっと頭から離れることはありませんでした。
   事実、その後啖を自力で引くことが非常に難しくなり、肺炎をひどくしてしまう恐れもあるという先生の説明を受け、少しでも彼女が楽になるようにと考えて気管切開を行ないました。しかし水頭症の治療については迷いました。先生の説明では開頭手術に比べれば技術的に難しいものではない。しかし、当然リスクはある。また手術をすることでどれだけの効果が期待出来るかについては確実なことは言えない。手術をした部分の皮下に水(髄液)が溜まり、膨れて来ました。それを見ると確かに辛い。しかしもうこれ以上、辛い思いもさせたくない。
   色々な思いが交錯するようになっていました。

at 21:05 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/最善の途。(抜粋)

  「何が最善の途かは、私に断言することは出来ません。ただ個人的には、やれると思うことは何でもやるということが最善の途であるとは思いません。事実、何でもやって見た後で、やはりやるべきではなかったと考えた方もおられます。勿論、かなりの効果が期待出来ると考えた場合は、私たちの方からも治療をお奨めしています。ただ奥さんの場合、病理組織診断の結果もかなり厳しく、現在の容態で放射線治療や抗がん剤治療を行なっても、劇的な回復は難しいと思います。ただそれらを行なわないからといって、何もやらない、やるべきことをやらないということではないと思います。ですからご主人がそのことで悔いることはないと思います。
  少し迷いが晴れました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
   「何が最善の途か。」これについては色々な考え方はあると思います。中村先生の話を聞いて、気持ちが落ち着いたとはいえ、その後もずっと頭から離れることはありませんでした。
   事実、その後啖を自力で引くことが非常に難しくなり、肺炎をひどくしてしまう恐れもあるという先生の説明を受け、少しでも彼女が楽になるようにと考えて気管切開を行ないました。しかし水頭症の治療については迷いました。先生の説明では開頭手術に比べれば技術的に難しいものではない。しかし、当然リスクはある。また手術をすることでどれだけの効果が期待出来るかについては確実なことは言えない。手術をした部分の皮下に水(髄液)が溜まり、膨れて来ました。それを見ると確かに辛い。しかしもうこれ以上、辛い思いもさせたくない。
   色々な思いが交錯するようになっていました。

at 21:05 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/放射線治療。(抜粋)

  手術後の治療をどうして行くか。これは経過を見ながら、先生と相談して決めなければならない重要な問題でした。一般的に言われているのは、開頭手術後の病理組織診断によってその原因を最終的に確定し、以降経過を見ながら放射線治療や抗がん剤治療を併行して行なっていくことのようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「奥様はまだ意識が戻っていません。しかし、放射線治療にせよ、抗がん剤治療にせよ、肉体的な苦痛が伴いますし、副作用もあります。ご本人の了解が得られない状況ですから、その判断をご主人やご家族にお願いすることになります。」中村先生からはそう伝えられました。  
   僕は迷いました。彼女に意識がなくて了解は得られなくても、考えられる治療はすべてやるべきか。たとえ1日でも残された時間が延びるのであれば、それは彼女にとっていいことなのか。」「一体どうすることが最善の途なのだろうか?」という問いが浮かんでいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  数日考えて、僕は中村先生に「放射線治療や抗がん剤治療を行なうことで、1日でも生きる時間が延びるのであれば、その途を選ぶのが最善の途なのかもしれませんが、僕はもし妻だったらと考えて見て、その途を選ばないように思えてならないのです。ですから、放射線治療も抗がん剤治療もお断りしたいのです。」
  先生にそう伝えた後も、実はまだ迷っていました。
  すると先生は、こう言ったのでした。

at 20:45 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/放射線治療。(抜粋)

  手術後の治療をどうして行くか。これは経過を見ながら、先生と相談して決めなければならない重要な問題でした。一般的に言われているのは、開頭手術後の病理組織診断によってその原因を最終的に確定し、以降経過を見ながら放射線治療や抗がん剤治療を併行して行なっていくことのようです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「奥様はまだ意識が戻っていません。しかし、放射線治療にせよ、抗がん剤治療にせよ、肉体的な苦痛が伴いますし、副作用もあります。ご本人の了解が得られない状況ですから、その判断をご主人やご家族にお願いすることになります。」中村先生からはそう伝えられました。  
   僕は迷いました。彼女に意識がなくて了解は得られなくても、考えられる治療はすべてやるべきか。たとえ1日でも残された時間が延びるのであれば、それは彼女にとっていいことなのか。」「一体どうすることが最善の途なのだろうか?」という問いが浮かんでいました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  数日考えて、僕は中村先生に「放射線治療や抗がん剤治療を行なうことで、1日でも生きる時間が延びるのであれば、その途を選ぶのが最善の途なのかもしれませんが、僕はもし妻だったらと考えて見て、その途を選ばないように思えてならないのです。ですから、放射線治療も抗がん剤治療もお断りしたいのです。」
  先生にそう伝えた後も、実はまだ迷っていました。
  すると先生は、こう言ったのでした。

at 20:45 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

2005年09月06日

My Dear Keiko

My Dear Keiko/目次

2000年9月25日〜2001年4月11日。
●2000年9月25日。/●国立病院東京医療センター。/●突発性てんかん。/●夏祭り。/●思い遣り。/●2000年10月3日。/●「おやすみ。」/●2000年10月6日。/●脳。/●運動会。/●救いの手。/●沈黙の闘い。/●嫁ぐ日のこと。/●声。/●携帯電話。/●ケア・コーディネーター。/●大嶽さん。/●有意義な生活。/●多形性神経膠芽腫。/●2000年10月19日。/●インフォームド・コンセント。/●水頭症。/●ジテドラ。/●ピンクの傘。/●放射線治療。/●最善の途。/●外泊。/●MRSA。/●カンジダ。/●運命の二人。/●気管切開。/●男の自立。/●一通のメール。/●微熱。/●硬縮。/●「敬子だったら、どうするか?」/●退院の日。/●海の向こうから。/●2000年11月4日。/見開かれた目。/●「敬子さんに何を望みますか?」/●2000年11月22日。/●意識障害。/●「ゆっくりね。」/●生きる力。/●貌つき。/●生活のリズム。/●励まし。/●重い現実。/●あいたぺあぺあつうしん。/●10年日記。/●書き写された詩。/●髄液。/●独りぼっちのクリスマス。/●爪。/●愛するということ。/●勇気と元気。/●遠い昔。/●三人ベッド。/●四人部屋。/●自信と信念。/●選ばれた理由。/●綾戸智絵さん。/●必ず晴れる。/●穏やかな眠り。/●新しいいのち。/●静かなる進行。/●エリック・サティ。/●リハビリテーション。/●移り行く季節。/●2001年2月7日。/●人工呼吸器。/●Love Needs A Heart./●「攻める柴田が欲しいんだ。」/●優しい眼差し。/●1975年の少女たち。/●電話の音。/●残された時間。/●溢れる愛。/●募る想い。/●延命。/●「あなたに会えて本当に良かった。」/●「また明日ね。」/●夢のカリフォルニア。/●春一番。/●痛み。/●尊厳ある死。/●弱まり行く力。/●想い出作り。/●2001年3月21日。/●千羽鶴。/●呼吸停止。/●歌声。/●男の涙。/●怖れ。/●マラソンランナーの孤独。/●体温。/●桜の花の散る前に。/●或る朝。/●黄色いワンピース。/●2001年4月11日。/●「ありがとう。」/●ホーム・アゲイン

2001年4月12日〜2001年4月14日。
●敬子らしく。/●人と人を繋ぐ人。/●離別と不安。/●送る言葉。

1978年夏〜1982年春。
●長浜館。/●大塚名画座・東急ハンズ。/●真夜中のカウボーイ。/●カウチンセーター。/●秘密。/●風のような女の子。/●門前払い。/●亀戸天神。/●名誉のポロシャツ。/●初めてのデュエット。/●街の音。/●自由が丘。/●リチャード・ブローティガン。/●You Can Close Your Eyes./

1982年春〜1984年冬。
●銀座。/●エンゲージリング。/●ホテル横須賀。/

1985年夏〜1989年夏。
●雨降って、地固まる。/●サテンドール。/●幸せの灯り。/●ハネムーン。/●三軒茶屋サンライズ。/●Wonderful Tonight./●斑尾。/●マウイ。/●高寺。/●ベティ。/●幻のシンガポール。/

1990年夏〜1994年夏。
●沙羅。/●ビッグ・サー。/●仲人。/●グラハム&スーザン。/●バブル。/●退職祝。/●有限会社シーバーズ・ワークショップ。/●葉奈。/

1994年夏〜2000年9月24日。
●僕たちの家。/●子育て。/●東大駒場。/●素人写真家。/●バースデーケーキ。/●らでぃっしゅぼーや。/●名前。/●夢見る年頃。/●自転車。/●還る場所。/●三人目のお母さん。/●不良中年。/寂しい夜。/●Will You Love Me Tomorrow?●中毒。/●アメリカンインディアンの教え。/●メカニック・ママ。/●二つ目のジュエリー、/●君の友達。/●火曜サスペンス。/●二人の父。/●ブエナ・ビスタ・ソシアルクラブ。/エリック・アンダーソン。
●さようならコロンバス。/●ビッグ・ピクチャー。/●年賀状。/●2000年9月24日。/●潤という名のワイン。/●この人生に賭けて。(あとがきに代えて。)/


●引用させていただいたホームページ。
●忘れ得ぬ歌、映画そして本。

at 22:26 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/ジテドラ。(抜粋)

 敬子が入院してからというもの、毎日彼女のことばかりが気にかかって、何も目に入らない、何も手につかない、そんな状態が続いていました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  そんな或る日。本当に久し振りに葉奈と一緒に、彼女がそう呼んでいた、ジテドラ(=自転車ドライブ)に出かけました。自転車がかなり上達した葉奈と決めていたいつものコース。慣れた道なので、先頭を行くのは葉奈。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
「葉奈。今日はもっと遠くまで行って見ようか?」「うん、行く。」そこでいつもとはずいぶんコースを変更して遠回りをしました。経堂まで足を伸ばし、葉奈の通う幼稚園の脇を通って、豪徳寺の商店街に戻って来ました。「アイスクリーム食べようか?」「うん。食べる、食べる。」葉奈と2人で、時には沙羅と3人でジテドラをする時は決まって、アイスクリームやソフトクリームを食べました。そしてそのことは、「ママには内緒」の僕たちだけのささやかな秘密なのでした。
  ジテドラはとてもいい気分転換になりました。そしてそれは葉奈にも同じようでした。自転車を駐車場にしまっている時、葉奈が「ダダ!飛行機雲だよ。」と僕を呼びました。空を見上げたら、前日の雨はすっかり上がって、気持ちのいい秋の空が広がっていました。そこには確かに飛行機雲がありました。「飛行機に乗って、またハワイに行きたいな。葉奈ね、飛行機大好きなの。」「そうだな。またハワイに行こうか。」「ママが戻って来たらね。」
  ほんのつかの間一般病棟に移ったことはあるものの、集中治療室に入っていた時から、12歳以下の子どもは面会を控えて欲しいという病院の指示もあり、電話で話をして声を聞くことは出来たけれど、彼女にはずいぶん会っていないのでした。沙羅や葉奈は寂しいのをこらえて、毎日頑張ってくれている。沙羅と葉奈がいてくれて、本当に良かった。この娘たちがいなかったら、この僕はどうなっていただろうか?そんな想いが過ぎりました。
  飛行機雲はまだ、秋の空に長く長く伸びていました。

at 19:52 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/水頭症。(抜粋)

  緊急手術からおよそ2週間。敬子に少し変化が起きていました。「水頭症という脳室に水が溜まって大きくなる傾向が出始めています。これによってコントロール出来ていた脳圧が再び上がってしまう可能性もあります。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 「水頭症とは脳室(脳の水がたまる部屋でそれぞれ側脳室・第3脳室・第4脳室などの名前の付いた部屋があります。)などに異常に大量の髄液(脳や脊髄の周りを循環している透明の水)が貯留し、脳室などが拡大した状態を言います。(中略)成人では1日に3回転し、約450mlもの髄液が産出されたh吸収されると言われています。何かの原因で(1)脳脊髄液が異常に多く産出されたり(2)髄液の循環がどこかで閉塞されたり(3)髄液の吸収が障害されることによって水頭症という病態が起こってきます。水頭症の治療には通常脳室腹腔シャント術を行います。脳室から過剰な髄液を皮下通したチューブで腹腔内に導き腹腔で吸収させるものです。最近では神経内視鏡で第3脳室の底に穴をあけてその下にある脳底のくも膜下腹腔交通をつける治療も行います。これは但しくも膜下腔の循環が保たれている人しか効きません。」
  先生はこうも言いました。「経過を見ながら判断しなければなりませんが、ご心配の、容態がどれほど改善するかについては何とも言えません。シャント手術は、技術的には難しくはありませんが、リスクはあります。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  僕は迷いました。「意識がずっと戻らないままで、ただ生きているということだけなら、敬子はちっとも嬉しくないだろうし、意識が戻ったとしても、自分の状態が判ったらきっと悲しむわ。きっと今は自分は良くなったわと思って眠っているのよ。出来ることなら、もうこのままそっとしてあげたいの。」お母さんの言葉も沁みました。
  まだ意識の戻らない彼女の脳に再びメスを入れる。それは本当に最善の途なのだろうか?本当に彼女はそれを望むだろうか?色々なことが頭を巡りました。
   でも答えは出ませんでした。

at 19:29 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/インフォームド・コンセント。(抜粋)

 インフォームド・コンセント。聞き慣れない言葉だと思います。と或るホームページにこんな風に説明されていました。
  「我々は病気の時に病院や診療所などに行き、病気を診断してもらい治療を受ける。この時患者は医師や看護婦さんなどから検査や治療についていろいろと十分に説明を受けて、疑問点などを解消し、心から納得して検査なり治療を受けることに同意することをインフォームド・コンセントと言う。しかし、我が国では歴史的に「医師は悪いようにはしない」と医師も患者も考え、医師にすべてを任せ、医療をそれなりに行ってきた事を考えると、少し戸惑いが両者に有ると思われる。インフォームド・コンセントのはじめは、患者と医療関係者とのコミュニケイションである。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  敬子の主治医である中村先生は、彼女の病状とその経過について、また治療方針について、解りやすく、ていねいに教えてくれました。勿論時には、それはとても聞くのが辛く、病気と闘っている彼女を想うと、悲しくてやり切れないこともありました。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  しかし、刻々と変化する彼女の病状を出来る限り知っておきたいという気持ちが次第に強くなっていました。そのことが、沈黙の闘いを続ける彼女の頑張りに応えることだと思ったのです。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「説明と同意」。インフォームド・コンセントはこう訳されることが多いようですが、意識がなかなか戻って来ない彼女に代わって僕が果たさなければならない、重要な役目でした。

at 14:14 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/2000年10月19日。(抜粋)

  余命は半年から長くても2年。中村先生の口から出た言葉は、あまりに残酷なものでした。それからしばらく呆然としてしまいました。そしてまた、敬子の容態が急変し、緊急手術を行なった時思った、「何で敬子が、こんな風にならなければならないんだ。」「10万人に10人の発症率の病気に、何故彼女が選ばれたのだ。」とにかく「何故、敬子が?」それしか頭に浮かんで来ませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「もしかするとごく稀に遺伝的な要因はあるのかも知れませんが、一般的に遺伝とは関連しません。また食生活とか、過労とか、仕事によるストレスなども、脳に関していえば関連性は少ないと思います。身体のどこかに癌が出来ていたものが脳に転移す場合もありますが、奥様の場合はそのような転移性の腫瘍ではありません。前にもお伝えしたように原発性で、精密検査や開頭手術によって腫瘍を摘出し、検査分析した結果、脳腫瘍が確認され、その種類を特定出来たのです。そういう意味では、何故腫瘍が出来るのか、或るいは何故奥さんの脳に腫瘍が出来たのかについての原因は良く判らないというのが現実です。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  やはり原因は判らない。彼女が手術前に言っていた、「何か原因が判れば気持ちが晴れるわ。」という点では、倒れた原因は脳腫瘍と判ったのだけれど、「それが何故彼女の脳に出来たのか。」は、やはり判らないままでした。必死に闘っている彼女の無念の声が聞こえて来るようでした。
  脳は、あまりに複雑で精緻で、これだけ医学が進歩した今も、まだまだ未知の領域なのです。
  日々いや一瞬一瞬が過ぎて行くのをこんなに切実に、切なく感じたことは一度もありませんでした。

at 13:56 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]

My Dear Keiko

from My Dear Keiko/2000年10月19日。(抜粋)

  余命は半年から長くても2年。中村先生の口から出た言葉は、あまりに残酷なものでした。それからしばらく呆然としてしまいました。そしてまた、敬子の容態が急変し、緊急手術を行なった時思った、「何で敬子が、こんな風にならなければならないんだ。」「10万人に10人の発症率の病気に、何故彼女が選ばれたのだ。」とにかく「何故、敬子が?」それしか頭に浮かんで来ませんでした。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  「もしかするとごく稀に遺伝的な要因はあるのかも知れませんが、一般的に遺伝とは関連しません。また食生活とか、過労とか、仕事によるストレスなども、脳に関していえば関連性は少ないと思います。身体のどこかに癌が出来ていたものが脳に転移す場合もありますが、奥様の場合はそのような転移性の腫瘍ではありません。前にもお伝えしたように原発性で、精密検査や開頭手術によって腫瘍を摘出し、検査分析した結果、脳腫瘍が確認され、その種類を特定出来たのです。そういう意味では、何故腫瘍が出来るのか、或るいは何故奥さんの脳に腫瘍が出来たのかについての原因は良く判らないというのが現実です。」
・・・・・・・・・・・・・・・・・・
  やはり原因は判らない。彼女が手術前に言っていた、「何か原因が判れば気持ちが晴れるわ。」という点では、倒れた原因は脳腫瘍と判ったのだけれど、「それが何故彼女の脳に出来たのか。」は、やはり判らないままでした。必死に闘っている彼女の無念の声が聞こえて来るようでした。
  脳は、あまりに複雑で精緻で、これだけ医学が進歩した今も、まだまだ未知の領域なのです。
  日々いや一瞬一瞬が過ぎて行くのをこんなに切実に、切なく感じたことは一度もありませんでした。

at 13:56 | Category : My Dear Keiko | Comments [0] | TB [0]