いつものように寒さの堪えた冬だったのに、桜の開花はいつもより早かったらしく、東京では例年より1週間ほど早く満開の時期を迎えていました。その頃は毎日お母さんかお父さん或いは2人が病室に来て敬子の傍にいてくれました。特にお母さんの悲しみは想像をはるかに超えるものであったと思います。自分のお腹を痛めた娘が、自分より先に旅立ってしまう、しかもそれが明白な事実となってしまう刻が確実に近づいている。傍でその現実を見守ることの身を切られるような辛さ、無念はおそらく僕やお父さん以上であったろうと。それらに耐えて彼女の髪を梳かしたり、手足を拭いたり、愛する娘の世話をしてくれていました。
「お母さん、敬子のあごの所に小さな傷がありますよね。前に聞いたことがあるような気がしますが、大変だったんですか。」「そうね。あの時はびっくりしたわね。お風呂で転んじゃってね。すごく血が出ちゃって。お医者さんが出来るだけ傷ののこらないようにって慎重に縫ってくれたわ。」「敬子はね。初めての孫だったの。だからすごく色々な人に可愛がられて育ったのよ。学校の先生にもね。高校に受かった時も、頑張れって贈り物をくれたりね。」「こんなことになってしまって済みません、お母さん。」「英雄さん、そんなことはもういいのよ。敬子は幸せだったわよ。それに英雄さんにこんなに傍にいてもらえて。ちょっと急ぎ過ぎたのね。ねぇ敬子。早く家に帰りたいわよね。沙羅や葉奈が待ってるからね。桜の花が散る前に帰りたいね。もうそんなに頑張らなくてもいいのよ。楽になっていいんだからね。」ほかにも色々なことを話しました。彼女の小さい頃はお母さんはものすごく忙しくていつも彼女を負ぶって仕事や家事をしていたこと、高校はとても遠くて毎日送り出すのが大変だったこと、でも楽しそうだったこと・・・・。そしてこうも言いました。「毎日敬子を見ていると辛くなるの。早く楽にしてあげたいって思うの。人工呼吸器をはずしてあげられないのかしら。」
呼吸が止まってからは、栄養も摂ることが出来ず、急に痩せて来ているように思えました。もともと小柄で華奢な身体付きだったけれど、さすってあげると肩のあたりが急に骨張ってしまって本当に細っているのが判りました。ふっくらと丸みのあった頬もこけて来たように見えました。膨瘤の部分も茶色に変色して来ていました。元気でいた頃とはすっかり変わってしまった彼女を見るのは本当に辛い。お母さんがそう思うのも無理はないと思いました。
桜の花の散る前に。彼女のためにもそれがいいのだろうか。お母さんの言葉が残りました。
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